中垣太良
今回の講義では、引き続き「文献学入門の入門」として『アエネイス』と『オデュッセイア』のテクスト事情について解説がなされたほか、前回までの講義の復習と補足が行われた。
まず、土曜日の講義で話題になったチベットについて簡潔に補足が行われた。現代チベット文語の読本、Mekyn C. Goldstein: Essentials of Modern Literacy Tibetanーーこの序文には、先生が『記述論の夕べに寄せて』あとがきで引用している「語の半ばは、含意によって読まれる」という語句の原文が載っている!ーーと、現代チベット語の辞書として、同氏によるTibetan-English: Dictionary of Modern Tibetanが紹介された。また、チベットに関する最も優れた歴史地図として、Karl E. Ryavec , A Historical Atlas of Tibetが参照された。
続いて、前回の聖書文献学概観講義の補足が行われた。まず、日本聖書教会発行の『新共同訳聖書』ーー『共同訳聖書』の出版に際してカトリックが主導権を握り、プロテスタント側から新版が望まれたため、新しく作成されたものであるーーが参照され、月・土の講義を通じて幾度も繙かれたBiblia Hebraica Stuttgartensia(ドイツ聖書教会)と、The Greek New Testament(聖書協会世界連盟)が底本に入っていることを確認した。
さらに、先週影印本が参照された「シナイ写本」のグルジア語版を収録したZara Aleksidze et al., Catalogue of Georgian manuscripts discovered in 1975 at St. Catherine’s Monastery on Mount Sinaiや、古代教会スラヴ語版を収めたIoannis C. Tarnanidis, The Slavonic manuscripts discovered in 1975 at St. Catherine’s Monastery on Mount Sinaiが披露された。どちらも「シナイ写本」が1844年に聖カテリナ教会で発見された131年後に、同教会で新たに発見された重要な資料である。
さらに、United Bible Society(聖書協会世界連盟)出版、Scriptures of the World が参照された。これは、聖書がいつの時代に、何語で出版されているかという文献情報を丹念に集めた書である。聖書の印刷年代の項目を見ると、初出はラテン語訳聖書で、1450年代となっている。すなわち、ルネサンス期にグーテンベルグが活版印刷術を発明して初めて、聖書は印刷され流通したということが一目瞭然である。それ以前は写本の時代であり、個々の教会や修道院内で保存されていたに過ぎなかった。
続いて、ホメロス『イリアス』について復習した。『イリアス』第1歌5行目について、ゼノドトス系統の写本ではδαῖτα、アリスタルコス系統の写本ではπᾶσιが採用されていたのであった(第5回講義録参照)。後者では、「彼ら自身(身体)を、犬どもや、すべての猛禽の餌食と為し」(藤縄謙三『ホメロスの世界』より)という訳になる。一方前者では、「彼ら(勇士たち)の体を犬たちに対する餌食とし、また鳥たちに対するごちそうとした」(拙訳)のように訳されるであろう。アリスタルコスは、勇敢に戦って死んだギリシア兵に対し、δαῖτα(δαις「祝宴、ごちそう」の単数対格形)の語を当てることに反発し、πᾶσιの語を採用したのであった。
ここで古代ギリシア人の死生観について解説が加えられた。彼らには天国や地獄といった観念はなく、死後の世界については独自の世界観を持っていた。埋葬された死者の魂はヘルメスによって導かれ、現世と冥界を分かつステュクス川まで至る。そしてカロンの渡し船によって、ハデスの治める冥界へと入り、意識のないぼんやりとした影のような状態で漂う。一方、埋葬されず非業の死を遂げた場合、怨念を持った亡霊として現れ、祟りをもたらす、といった具合である。
天国と地獄という概念が現れるのはキリスト教が出現してからである。ただし、例えば洗礼を受ける前に亡くなった赤子や、罪を犯したがのち改悛した人はどちらへ行くのか、という問題が浮上する。そこで、前者に対しては「辺獄」(リンボ)、後者については「煉獄」といった概念が用いられるようになる。「煉獄」概念の歴史的経緯については、ジャック・ル・ゴッフ『煉獄の誕生』(渡辺香根夫・内田洋訳、法政大学出版局)が参照された。本書は考察のなかで、ダンテ『神曲』を取り上げている。『神曲』は、地獄の最下層にいる主人公(=ダンテ)が、煉獄、そして天国へと魂を上昇させていくという設定であり、その案内役として選ばれていたのが、ラテン詩の祖、ウェルギリウスであった。
ここで、ウェルギリウスの大長編詩『アエネーイス』に話題が映った。まず岩波文庫版、泉井久之助訳(1976)と、京都大学西洋古典叢書版、岡道夫・高橋宏之訳(2001)が参照された。ここで問題となるのは、なぜ人口に膾炙した定訳があるのに、新訳が必要になったか、である。両書の冒頭を見比べてみると、前者ではウェルギリウスの未定稿が丸括弧付きで本文に組み込まれているのに対し、後者ではその部分は完全にカットされている。こうした差が出る理由は底本にある。戦前には1930年Clarendon Press出版のJ. W. Mackail校註版が定評ある校訂本として存在していた。これはウェルギリウスの未定稿をも収めている。ところが第二次大戦後、『アエネイス』の校訂の方針が変わり、未定稿はカットするのが主流となった。泉井訳はJ. W. Mackail版を底本として用いており、こうした最近のウェルギリウス研究の風潮にそぐわなくなったため、これと異なる校訂本(R. A. B. Mynorsらによる)を用い、最新の研究成果を踏まえた岡・高橋による新訳が出版される運びとなったのである。
続いて、『アエネーイス』の物語の骨格となった、ホメロス『オデュッセイア』について解説があった。ホメロスのギリシア語はイオニア方言であり、我々が通常「ギリシア語」として学習するアッティカ方言の知識だけでは足りない。それを補う入門書としてClyde Pharr, Homeric Greekが、専門書としてはPierre Chantraine, Grammaire HomeriqueIが参照された。また、ギリシア語の一般的な辞書として、A. Baillyの希仏辞典に、L. Sechanと上記P. Chantraineらが改訂を行ったGrec Françaiseが推奨された。古典語の辞書としては珍しく、全例文にフランス語訳がついているのが特徴である。続いて『オデュッセイア』の校訂本としては、David B. MonroとThomas W. Allenらによるホメロス全集、Homeri Opera(Scriptorum classicorum bibliotheca Oxoniensis)がまず参照されたほか、700以上の写本を校合し、膨大な注釈を付したMartin L, Westによる最近の労作Homerus Odysseaが参照された。
我々はここまでの講義で、現在流通している古典テクストがどのような形で生成されたのかという問題に対し、先生のガイドと原典研究所の蔵書によって「文献学の実地訓練」を行ってきた。では、我々がこれから挑もうとしている『君主論』のテクストは、どのように作られていったのか、ということが当然問題になる。この問題については、講読の開始とともに徐々に<探究>が行われることになるであろう。今回はその簡単な下準備として、『君主論』の邦訳(池田廉訳、河島英昭訳)を参照し、それらの底本を確認したほか、イタリア語の校訂本としてMario Martelliによる国定版(Edizione Nationale)が繙かれた。これは、『君主論』の異本を比較し、脚注で異同をまとめている唯一の版である。
テクストがどのように伝承され、どのような過程を経て現在の形に至ったのか、ということを知るために文献学の基礎を身につけることは非常に重要である。他方で、これまでの講義で確認したように、文献学とは一語一句や句読記号の有無にまで拘る学問であり、一度その沼に足を取られると、一生その作業につきっきりになってしまいかねない。我々は、異文が解釈に決定的に関わる部分には注意を払いつつ、あくまで鷹揚な姿勢で読み進めていけばよいのである。なんとなれば、我々の目標はあくまで<読解>を通じて自らの生を切り開くことにあるのだから。