講義紹介 2018年8月25日(世界史講義)

今回の土曜日の世界史講座ではこれまで三年間に渡る原典世界史の総括が行われました。そこで、先生から次のような世界史観が述べられました。「世界史というのはこの世に生起する事柄の全てを説明できるものでなくてはならない」と。世界史講座ではこれまで古代オリエントに始まり日本仏教そして国学に至るまでユーラシア・アフリカ大陸で興った全ての重要な思想を網羅的に扱ってきました。特に言語史、文化史、宗教史を基盤とする原典世界史では、各種聖典やその他資料を実際に読めるようになるにはどれだけの準備をすれば良いのかを知るための蔵書の展観と、そしてそれを用いるといかなることがわかるのかを示す実演がその中核にありました。そしてこれこそが先生のいう世界史まさにそのものであると感じます。
思想は地下水脈のように歴史を流れ続けそれが目に見える形で表出したものがイデオロギーである、というのも先生が示した考えですが、これに則れば、原典世界史で扱った内容に続く中世以後の世界で生起した事柄はおよそこれらの思想がイデオロギーとして人々を動かした結果と見れます。となればそれを説明するのに必要なのはこれらの思想の正確な理解であり、あとはある意味ではその表出のパターンを検証するのみなのです。もちろん、個別的な事例を考えるには検討すべき個別的な問題が多くあるのは間違いありませんが、「世界に生起する事柄の全てを説明する」という目標を達成するにはこの地下水脈としての思想を抑えることが第一であり、個別的な事例の精緻な検証は各国史に譲るべきでしょう。
最後に一つ私見を述べさせていただくならば、この個別的な事例群に通底する思想の表出パターン、つまり思想によって世界史的な事柄がいかにして起こるかというメタレベルでの歴史学は抽象的なモデルによる構成的な理解によって得られ、それは理論物理学の範疇にあると私は考えています。
(板尾)

3 thoughts

  1. 執筆者より、「理論物理学の範疇」とはいかなることであるかについてコメントさせていただきます。

    以前世界史で仏教を扱っていた際に、唯識論の水準にまで哲学的な考察が深まると、あとはレトリックを究めるか極端な実践論に走るかでいずれにせよ民衆から思想が離れてしまうと言ったようなことを先生はおっしゃったと記憶しています。また思想史的な文脈が異なっていても記述者の意識というレベルで見れば同じレベルの問題として読むことができるというの概念も、世界史的な出来事が完全に相互に無縁な形で生起するのではなく、そこには状況的な文脈が共通であるためか、そもそも人間の考えることという点で共通の問題であるためか、なんらかのパターンが見いだされうることを示唆しています。

    私が理論物理学的な方法で扱おうとする世界史(本文でメタな歴史学と言ったもの)は、辞書や文法書を使わないという点で原典世界史とは乖離してしまうものですが、そこでは原典で培った文献学的な精緻な読解により思想的歴史的状況を正確に理解されたとき、そこで見出されたイデオロギー的な人間同士の対立やまたイデオロギー的ではない人間の存在がいかなる帰結を生むかを問題とします。人間集団の適切なモデルを立てることで、個別的な事柄を全て記述するのとは別な仕方で、この世に生起する事柄を理解できるようになるのです。なぜモデルにこだわるかというのは、すなわちなぜ物理なのかということですが、それは歴史的な過程を記述的に(記述論的にではなく)並べることが世界史を理解することではないと思うからです。歴史的な出来事の中にある種の必然性を見出し、人間が思想に動かされて、かつ多数集まって振る舞う時に生起する事態に何らかの普遍性を見出してはじめて、人類について何かが分かったと言えるのだと私は思います。そしてこのモデルを立ててシミュレーションによって現象を理解することは、構成論的アプローチと呼ばれる理論物理学の一手法で、一般に理論物理学というと素粒子物理や宇宙論が想起されるようですが、ここで述べた事柄もやはり理論物理学的な対象なのです。

  2. ピンバック: solars.biz
  3. ピンバック: uberdl.fun

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です