今回の講義から扱う、『西洋の没落』緒論第六節を、シュペングラーは次の問いでもって開始する。
Ja―was ist Weltgeschichte ? (さて――世界史とは何か?)
こうして真正面から根源的、原理的問題に切り込む語り口でもって、いよいよシュペングラーはこの大著で展開する歴史哲学の核心に触れようとしている。先生曰く、こうした原理的な問いでもって思考を展開することろに、ドイツ観念論やニーチェといったドイツの哲学者のもつ共通の語り口が存在するとのことである。 世界史とは、客観的な実在というよりも、人間の心性が要請するものである。人間は語る。それゆえに事実と神話の渾然一体となった語りによって、歴史(Geschichte)はまさに物語(Geschichte)として生起するのである。
とはいえ、世界史をこのように説明したのでは曖昧な一般論の域を超えることはない。目指されるべきは、このような主観的な感覚によって曖昧に理解された世界史という観念を超えて、世界史の確固たる構成要素である形態それ自体(die Form)、我々の内的生の写像を明らかにすることである。 にもかかわらず、職業的な歴史家たちを含め多くの人々は、世界史の内的な形態を知っていると信じて疑わない。「実際問題、世界史の形態とはいまだ調査されていない精神的な所有物なのである」。
シュペングラーによれば世界史を取り巻く誤った観念の例として、古代―中世―近代という時代区分を挙げることができる。この単純かつ直線的な図式は、それぞれの時代に割り当てられた年数の比率からしても荒唐無稽であるにもかかわらず、決して揺らがず影響力を維持し、それによって新たな領域が我々の歴史意識のもとに入りこむことを妨げてきたのである。このような図式に従っていくら個別の歴史的事象について語ろうとも、そこに世界史の様々な事象が落ち着くべき場を見出すであろう内的な像を見出すことは不可能だろう。
シュペングラーの語り口には、根源的な問いを我が物にせんという気迫を感じさせるものがある。そうした感覚は私にとっては、ドイツ語初学者としての私がドイツ語自体に素朴に感じてしまうごつごつとした手触りと見分け難い、極めて不確かなものとして現れているにすぎないのだが。しかし、そうしたドイツ語自体のもつ何らかの性格と、問い自体の精神性が合致してこのような語り口がうまれているのではないかと記すと、あまりにナイーブだろうか。
(狩野)