講義紹介(世界史講義)「古典を読むということ」

古典を読むということ
「原典世界史」の終盤にあたって

1 古典を読むための基礎

最近の若者は古典を読まなくなった。とか、大学生ならば古典を読めというようなことがよく言われる。
しかしながら、我々は大学に入る前の過程において、また大学入学以降においても古典を読むために必要な基礎教育を受けてきていないのである。
かつて我が国に存在した旧制の高等学校はまさにこうした古典を読むための語学教育と教養教育の場であり、旧制高校で学ばれた西洋哲学の古典的教養いわゆる「デカンショ」は大学に進学し、それぞれの専門を学ぶようになっても、戦前のエリート達の知的基盤となったのであった。
現代においても、欧州のエリート養成校は古典教育と、それに結びついた歴史教育を重視しているのである(ここでいう古典教育とは、ラテン語やギリシャ語によって書かれた古典だけでなく、ダンテのようなその国の「国語」で書かれた古典文学の教育をも含む)
その点、我が国でも高校における国語教育は、古文・漢文によって我が国の古典文学とその基礎となった漢文を学び、近代以降の文学作品については現代文で学ぶので、少なくとも文学的な教養と、文章を読解する倫理的思考力については、欧州と同様、高校までの教育で担保されているといえるだろう。
外国語で書かれた古典の原書を読むための外国語教育を大学入学以前に済ませておくためには、旧制高校を復活させる他ないが、それは不可能だと思われるので、以下ではそれに代わる歴史教育について扱う。

2 古典を読むということ

現代において、多くの読者は、西洋の古典を翻訳されたものとして読み、受容するであろう。翻訳によって、一応、言葉の壁は取り払われているとしても、次には「書かれた時代の特性」という壁が立ちはだかる。
古典に関して「書かれた時代の特性」という壁が存在することは、訳者たる者(その多くはその分野の学者であるが)にも認識されており、古典の翻訳には必ずといっていいほど、彼らの手になる詳細な註が付されている。本文と註とを共に読み進めていくことによって、読者は、古典と呼ばれるテクストの中に書かれた「記述の内部」に入り込み、読解することを期待される。
とはいえ、多くの読者にとって、本文と巻末、もしくは章末にある註記との間を行き来することは煩わしいものであるし、註そのものがアカデミックな形式で書かれている場合には、高等教育を受けていない読者や、大学院で学問的なトレーニングを受けていない読者は、註の内容を理解することすらできないだろう。
それでは、古典とは一部のアカデミックな専門家のみが理解しうる知識階級の占有物に過ぎないのであろうか?
少なくとも、「古典」を翻訳し、出版している学者や出版社はそう思っていないであろう。だからこそ、岩波文庫を中心とした西洋古典の翻訳が、いまなお数多く刊行され続けているのである。
文庫本ということで値段も手頃なこれらの翻訳された古典から、とりわけ若い学生が離れつつあるのは、古典を読むための基礎となる教養、特に歴史的なそれを与えられることなく、いきなり古典そのものに対峙させられること、古典を生み出した歴史的社会的背景、「記述の外部」を一切知ることなしに、「記述の内部」の精密な読解を求められることに起因しているのではないだろうか。
本来、「古典を読む」とは、そのテクストが生み出された歴史的社会的背景(記述の外部)と、テクストとして書かれた文章(記述の内部)を読者が自らの中で止揚し、「全体験変容」へと繋がる内面的変化を起こすことであると私は考える。そのためにはまず、その「記述」を生み出した「世界」即ち「記述の外部」を徹底して知らなければならない。その上にこそ、初めて「記述の内部」の深奥へと至る道が開かれるのではないか。これこそが、今まさにフィナーレを迎えんとする「原典世界史」で私自身が経験しつつある「全体験変容」である。

(御手洗 佳寿)

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