『原典黙示録』第84回(12/25) 講義録

『原典黙示録』第84回 講義録

田中大

〈読む〉ためには、我々は単なる「読み手」であってはならず、同時に「司書」でもなければならない。単に言葉が読めるという段階に至るだけでは不十分で、無数の書物と適切に付き合うための〈方法〉を学ばねばならない。これは知識ではなく、一つの技術であって、それを身につけるためには徹底した訓練を必要とする。

それは書物を、書架を、知覚するアナログな〈身体感覚〉を体得することである。これは純粋な認識の領域に属する営みでも、純粋な実践の領域に属する営みでもなく、こうした区分が成立する以前の地平にある営みである。

本講義が始まってから二年の月日が経つ。その中では様々な文化を形成したありとあらゆる〈テクスト〉が言及されてきた。新しい書物が繙かれるそのたびごとに、私の〈感覚〉は鋭敏になっていった。それらの書物が壁一面に並ぶ原典の教室そのものの意味も、今の私には当初と全く異なるものとして映る。

そしてこの〈感覚〉はそのまま、〈世界〉を把捉するための〈感覚〉でもあり、本来それは現在の欺瞞に満ちた〈状況〉おいては〈違和感〉へと帰結するはずなのだ、〈制度〉がその間に介在しない限りは!だが現状〈制度〉はほとんどア・プリオリに、人間の思考を規定しているかのようである。〈制度〉の中に安住する者たちは、他の思考の可能性に気付くことすらない。

〈絶望〉することさえ知らずに、極限の〈貧しさ〉の底から出発せねばならないこの時代にあっては、己の〈書く〉という行為が〈状況〉の中に確かな〈端緒〉を打ち建てるるという〈予感〉を信じるところに、おそらく辛うじて〈実践〉は成立する。そしてこの講義録もまた、その一部であった。

〈決着〉へと至るために、ままならぬ現在を生き抜かねばならない。いつかの夜明けに捧げられた、〈黙示〉の〈言葉〉を糧としつつ。

One thought

  1. 田中君、皆さん
    一年間ありがとうございました。
    来年も引き続きよろしくお願いいたします。
    私たちが取り組むべき課題をどのように咀嚼されていくのか、まだ分かりませんが、咀嚼し続けること自体が大切だと思っております。
    何かお気づきのことがあったら、いつでもご連絡いただけると嬉しいです。

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