イタリア語講座 第10回(12/27)講義録

中垣太良

本講義も第10回を迎えた。それに相応しく、今回は引き続き「文献学入門」を銘打ちながらも、文献学の限界を突き抜ける<記述論的>な<読み>が披露された。

講義前半では、まずKurt Aland, Synopsis Quattuor Evangeliorumが参照され、凡例に記された種々の分類記号(パピルスはルーン文字のPを変形させた記号、大文字写本はローマ字の大文字(「シナイ写本」だけはאで表す)、小文字写本はローマ字の小文字、等)を眺めつつ、聖書写本の種類を復習した。

前回の講義録で述べた通り、小文字写本の多くは皇帝教皇主義を採るビザンツ帝国で作られた。それゆえこれらの本文は固定化されており、研究者によってこれを“Majority Text”(多数派テクスト)として退けるか否かが分かれていたのであった。西方では、西ローマ帝国以来、ローマ・カトリック教会のもとでウルガータ聖書が基本とされ、ギリシャ語文献は顧みられなかったのだと解説された。

ここで新約聖書の希英対訳、The NKJV Greek English Interlinear New Testament (Arthur L. Farstad編)が参照された。“NKJV”とは“New King James Version”の略称であり、「欽定訳聖書」(“King James Version”)の後釜を名乗っているのである。本書のギリシャ語本文はThe Greek New Testament according to the Majority Text(Zane C. Hodges & Arthur L. Farstad編)に依っており、小文字写本を元にしているのが特徴的である。

次に、聖書にまつわる歴史地図・図表が参照され、シナイ写本が発見された聖カテリナ修道院ーー四面を堅固な防壁で囲まれており、門がないのが非常に印象的であるーーの写真を鑑賞した。

さてSynopsis Quattuor Evangeliorumに戻る。本書は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書の並行記事を一覧表にし、比較対象した上で、当該箇所がどの写本に見られ、どのような異同があるのか脚注に記している。これをCritical Apparatus(異文資料欄)と呼ぶ。さて、ここで前回参照された、Mario Martelliの校訂によるIl Principe(『君主論』)の国定版(Edizione Nationale)が再び繙かれた。本書はリジオ(Lisio)版・カゼッラ(Casella)版・イングレーゼ(Inglese)版・シャボ(Chabot)版といった種々の校訂本を比較し、脚注でそれらの異同を示している。ここで注意せねばならないのは、本書は校訂本の比較に留まり、写本レベルーー例えばラウレンツィアーノ手稿やコルシーニ手稿、ゴータ手稿、ミュンヘン手稿などーーの比較にまで遡っていないという点である。したがって、本書は「校異」を行っているにすぎず、聖書文献学のCritical Apparatusとは校訂のレベルが異なることが指摘された。

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講義後半のはじめ、まず秦剛平『乗っ取られた聖書』が取り出された。本書は、「ユダヤ教の聖典がキリスト教の聖書に組み込まれて、新約・旧約というように勝手に区分けされてしまった」という趣旨で「乗っ取られた」というフレーズを用いているようである。しかしこれは一般的な話であって、あまり説明になっていない。果たして「乗っ取られた」ということの実質はどこにあるのか? ここで受講生自身でしばし考える時間が与えられた。

シンキングタイムが終わると、息抜きがてら、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(河島英昭訳)が取り出された。本書のエピグラフには、「手記だ、当然のことながら」とある。しかし、これは誤訳である、と先生は指摘する。“Naturalmente, un manoscritto”という原文の語順を恣意的に組み替えているところもさることながら、“un manoscritto”の訳が問題である。たしかに物語は語り手アドソの「手記」の形式をとっているとはいえ、本筋はアリストテレス『詩学』の写本の伝承をめぐって展開されるのであるから、原文の“manoscritto”は、「手記」でなく「写本」と訳されるべきであろう。

さて、話はいよいよ本題へ入る。まずJPS Hebrew-English TANAKH と『新共同訳聖書』の目次が開かれた。すると奇妙なことに、両者では各巻の順番がかなり異なるのである。下記にまとめておく。

  • JPS Hebrew-English TANAKH
    【トーラー(律法)】創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記
    【ネビーイーム(預言者)】ヨシュア記、士師記、サムエル記上、サムエル記下、列王記上、列王記下、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書
    【ケトゥービーム(諸書)】詩編、箴言、ヨブ記、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書、エステル記、ダニエル書、エズラ記、ネヘミヤ記、歴代誌上、歴代誌下
  • 『新共同訳聖書』(旧約)
    創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記上、サムエル記下、列王記上、列王記下、歴代誌上、歴代誌下、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの言葉、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書

さらに、Biblia Hebraica Leningradensiaにより「レニングラード写本」が参照され、加えてユダヤ人が厳密に伝承してきたマソラ本文の実物ーー今なお各地のシナゴーグで用いられ続けているーーも確認されたが、状況は当然同じである。先生が特に注目するのは、タナハ(Tanakh)では39巻中26巻目にある『マラキ書』が、『旧約聖書』では最後の巻として位置付けられているという事実である。ここには、聖書の「編集史」ーーこれについてはW. マルクスセン『福音書記者マルコー編集史的考察ー』が紹介されたーーが関わっているのだ、と先生は言う。

続いて披見されたのは、Gleason L. Archer & Gregory Chirichigno, Old Testament Quotations in the New Testamentであった。本書はマソラ本文・セプトゥアギンタ・新約聖書の並行記事を比較し、一覧にして注釈を付したものである。すると、マソラ本文の『マラキ書』3:1と、新約聖書の『マタイによる福音書』11:10、『マルコによる福音書』1:2、『ルカによる福音書』7:27とが並行記事となっていることが示されている。いずれも、地上に使者が遣わされるという内容である。

まず、先に述べたThe NKJV Greek English Interlinear New Testament と、聖書協会世界連盟(United Bible Societies)によるThe Greek New Testamentとで、『マルコによる福音書』の当該箇所周辺を確認した。すると3:3において、前者では“φωνὴ βοῶντος”(叫ぶ者の声)の後に引用符が付され、“ Ἐν τῇ ἐρήμῳ”(荒野の中で)へと繋がっている。一方後者では、“φωνὴ βοῶντος ἐν τῇ ἐρήμῳ”(荒野の中で叫ぶ者の声)までが一塊の語句で、その後に引用符が来ている。こうした違いは、小文字写本に依って立つ前者と、パピルス・大文字写本・小文字写本などさまざまな本文を比較検討した後者との校訂方針の違いによるといえる。

さて、ここでいう「荒野で叫ぶ者の声」とは、荒野で活動を行った洗礼者ヨハネを明らかに表象しており、遣わされた「使者」もまさにヨハネのことである。一方マソラ本文の『マラキ書』における「使者」とは、ヤハウェの言葉を伝える預言者ーーおそらくマラキであろうーーを表象しており、意味合いが違う。ところが、キリスト教の聖書において、旧約聖書の最後に『マラキ書』が置かれているとなると、話は違ってくるのである。

先生は道破する。キリスト教徒は、マソラ本文の『マラキ書』の順番を変え、旧約聖書の最後に位置付けた。この配置によって『マラキ書』があたかも『マルコによる福音書』に接続しているかのような印象を生み出したのだ、と。そして、これこそが「乗っ取られた」という意味である、と。

受講生が衝撃に包まれているうちに、先生はさらに続ける。『マルコによる福音書』の1.1の「神の子の」(υἱοῦ θεοῦ)は、後に付け加えられた文言である、と。その証拠として、まず古グルジア語版『マルコによる福音書』、The old Georgian version of the Gospel of Mark : from the Adysh gospels with the variants of the Opiza and Tbet gospelsを確認した。本書で、Robert P. Blakeによるラテン語訳を見ると、冒頭には“Prinpicium evangelium Jesu Christe”とあり、「神の子の」に当たる語句は見当たらない。続いて「シナイ写本」の影印本、Bibliorum codex sinaiticus petropolitanusが繙かれた。本文の当該箇所には“ΙΥΧΥ”ーー神聖な語句である“ΙΗΣΟΥ ΧΡΙΣΤΟΥ”(「イエス・キリストの」)を、最初と最後の文字だけ抜書きした略称(「ノミナ・サクラ」という)であるーーと記されているだけで、「神の子の」という文言(ΥΥθΥ=υἱοῦ θεοῦの略称)は、行間に小さく書き込まれているに過ぎない(下記画像参照)。それなのに今日流通している新約聖書の多くで「神の子の」とあるのはなぜか(事実、『新共同訳聖書』、The NKJV Greek English Interlinear New Testament 、The Greek New Testamentのいずれにおいても排除されていない)。実は、この文言はカトリック圏で広く普及したウルガータ訳聖書の本文に組み込まれていたのである。先生曰く、おそらくウルガータの読者層に対する布教戦略として、この文言をあえて排除しなかったのではないか、と。

 

 

文献学は道具である。それは意味の断崖に立ちすくむ我々に確かな足場を確保してくれる。しかし、<跳躍>のための力を与えてくれるわけではない。我々はいつかは足場を捨てて、新たな崖へ飛び移らねばならない。全身に蓄積した<体験>のエネルギーで走り出し、崖の際で<想像力>をもって最後の一歩を踏み切り、宙へ浮かんだ刹那の絶景は、永遠を凝縮した一瞬である。今回の講義でも、こうした無二の瞬間の数々が私に刻まれたのであった。

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