『原典黙示録』第85回(補足回)(1/11) 講義録

『原典黙示録』第85回(補足回) 講義録

田中大

デカルト『省察』冒頭には、本書の出版許可を求めるソルボンヌ大学宛書簡が付されている。この書簡においてデカルトは実に彼らしい、隅々まで万全の注意が払われた隙のない文体でもって慇懃な献辞を記しているが、そこで彼は神学者たちに目線を合わせ、聖書からの引用によって彼の言葉を根拠づけてみせている。今回の探究の端緒となったのは『ローマ信徒への手紙』1:19からの引用である。

Quod notum est Dei manifestum est in illis
神について知られたことがらは、彼らには明らかである

これは無論『ウルガータ』の一節であるが、デカルトが利用していたのは1545年のトリエント公会議において『ウルガータ』がカトリック教会公式の聖書に認定された後に出版された「シクスト・クレメンティーナ版」であった。講義では実際にシクスト・クレメンティーナ版本文が繙かれ、『省察』の引用文と一致していることが確認された。続いて参照されたのはギリシア語原文であった。

τὸ γνωστὸν τοῦ θεοῦ φανερόν ἐστιν ἐν αὐτοῖς
神について知られ得ることがらは、彼らには明らかである

原文を読むと、この箇所のシクスト・クレメンティーナ版『ウルガータ』のラテン語訳は正確な翻訳ではないということがわかる。ラテン語のnotum”nosco”「知る」の完了受動分詞であり、この箇所では名詞として用いられているため「知られたことがら」という意味になるが、それに対応するギリシア語のτὸ γνωστὸν”γιγνώσκω”の動詞的形容詞が定冠詞を付されて名詞化されたものであるから――講義では、新約聖書ギリシア語文法の古典的名著R. W. Funk , A Greek Grammar of the New Testament and Other Early Christian Literatureにおいて“The article with adjectives used as substantives”の用例としてこの箇所が引かれていることが確認された――、「知られ得ることがら」という意味である。これが誤訳であることはカトリック教会も認めたらしく、20世紀後半に新たに校訂・編集された『ノウァ・ウルガータ』本文では、問題の箇所はより原文に忠実に“noscibile”と訳されている。

このたった一つの訳語の違いが、読解の上では本質的な差をもたらす。notum”“noscibile”のいずれの語を採用するかによって、それぞれ異なる記述の地平が切り拓かれるからである。この指摘は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』というテクストが、冒頭に登場する語“der Fall”を「事態として成り立っている」と解釈するのではなく〈成り立ち得ること〉と解釈することによってのみ、正確に読解されるという決定的洞察(『おんぱろす』《§. II-[j]》)と、まさしく同一の〈問題〉に関わっているといえよう。そしてこれらを等しい〈問題〉として認識することが可能になる視点に立つこと、それが読解=記述の一般理論への入り口であって、その先に待ち受けるものこそ、〈記述論〉なのである。

最後に参照されたのは羅独対訳の『省察』であった。そこでは問題の引用は以下のように独訳されていた。

daß man weiß, daß Gott sei, ist ihnen offenbar

同時に参照された全ての英仏語訳がほとんど直訳であったのに対して、これだけは踏み込んだ翻訳となっている。このように訳される理由は、これが釈義を含んだ翻訳だからである。先生曰く、『ローマ書』1:19における「ひとが神について知っていること」、これが指し示すものが何であるかという問題を解明するための釈義の関鍵は、ここに示されていたのである。今日に至るまで、このことに一体誰が気付き得たことだろうか。釈義とは、途方もない博捜の経験の上に、初めて可能になる営みなのである。

釈義とは語学的な問題ではなく、それを切り抜けた先に初めて成立する問題であって、「この記述はいかなる記述であるのか」と問う場は、この問題の領域に初めて現れる。ゆえに、ある〈テクスト〉を前にしたとき我々の裡に不可避的に沸き起こる違和感に対して誠実であるためには、ひとは常に釈義を行うことが必要となるのである。ここに至って、“שִׁילֹה”の問題を出発点として実践されてきた釈義という営為は、いわば記述論的〈読解〉の核をなす不可欠な要素として、存分にその意義を展開されたのであった。

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