イタリア語講座 第11回(1/10)講義録

中垣太良

我々は第10回までの講義を経て、イタリア語の読解に必要な工具書はもちろんのこと、写本レベルでの伝承や、専門家による校訂作業といった<テクスト>の生成過程--講義ではダンテ『神曲』、モンテーニュ『エセー』、ホメロス『イリアス』、ウェルギリウス『アエネイス』とホメロス『オデュッセイア』、『新約聖書』と『旧約聖書』等にまつわる文献学的問題について<探究>がなされた--について、さらにラテン語とイタリア語の関係性やルネサンス期の言語状況についても余す所なく知った。このように、たっぷりと「前準備」に時間をかけてから<テクスト>に取り組み始めるのが「原典語学」の特長である。

今回の講義では、こうした「前準備」を踏まえつつ、いよいよ『君主論』の本文講読に入った。Giorgio Ingleseによる校訂本(所謂「Inglese版」、Einaudi社発行)を主に参照しつつ、Piero Melograniによる現代イタリア語訳が施された対訳版(Mondadori社発行)も見比べながら進めている。

まず、本書はマキャベリからロレンツォ・デ・メディチへの献辞から始まる。「ニコロ・マキャベリ 偉大なるロレンツォ・デ・メディチに捧げる」というラテン語の文言の次には、以下の一文が載っている。

◆【Inglese版本文】
[1] Sogliono el piú delle volte coloro che desiderano acquistare grazia appresso a uno principe farsegli incontro con quelle cose che in fra le loro abbino piú care o delle quali vegghino lui piú dilettarsi;

◆【現代イタリア語訳(Piero Melograniによる)】
Coloro che desiderando ottenere la benevolenza di un principe sono soliti, il più delle volte, recarsi da lui con le loro cose più care, o portandogli le cose che sanno essere a lui piú gradite.

現代イタリア語訳では、はじめに主部、次に述部とイタリア語の基本語順に従っているのに対し、Inglese版の本文では倒置法が用いられ、述部“Sogliono~”が先に、主部“coloro che~”が後に配置されている。こうした凝った書き方は手紙の冒頭や献辞で好まれたのだと指摘されたほか、graziaとはもともと「恩寵」を表す言葉だが、それだと意味が強すぎるので工夫して訳す必要がある、という注意があった。

この部分を訳してみると、「君主の下でその愛顧を賜ろうと望む者たちは、たいていの場合、以下のようにするのが常である」となる。「以下のようにする」とは、具体的に言うと“farsegli incontro”に当たる。

farsegliには“farglisi”という注が付けられており、再帰動詞farsiと間接目的語人称代名詞gliの不定法における組み合わせが、現代イタリア語と異なることがわかる。これに気をつけつつ“farsegli incontro”を直訳すると、「彼に(gli)会うこと(incontro)をすること(farsi)」となる。

続いて、“con quelle cose che in fra le loro abbino piú care o delle quali vegghino lui piú dilettarsi”を分析する。関係詞句“che in fra le loro abbino piú care ”と“delle quali vegghino lui piú dilettarsi”が並置され、どちらもquelle coseを修飾している(なお、ここでのquelleは、冠詞leを代替する指示代名詞の強調用法であることが脚注で指摘されている)。

前者の関係詞句は、quelle coseと合わせて「彼らの持ち物の中で最も大切なもの」とでも訳せば良い。問題は後者の関係詞句である。vegghino(他動詞vedere「見る」の接続法現在3人称複数形の古形)の後ろに、人称代名詞のluiと、動詞の不定法dilettarsi「喜ぶ」が続いている。これは、「対格+不定法」の組み合わせによって<…が〜すること>という名詞句を表すラテン語的な表現(いわゆるaccusativus cum infinitivo)であると指摘された。例えば“They see her go out”という英語の文において、herがseeの目的語であると同時に、go outの意味上の主語の役割をも果たしているが如きである。これと同様に、“vegghino lui piú dilettarsi”も、「<彼(lui)がより(piú)喜ぶこと(dilettarsi)>を見る(vegghino)」という構造になっているのである。従って“quelle cose~delle quali vegghino lui piú dilettarsi”は、直訳すると「彼(君主)がより喜ぶことを見るであろうもの」のようになる。

この部分について、まず現代イタリア語訳が参照された。すると、“le cose che sanno essere a lui piú gradite”(「彼(君主)に、より歓迎され得るもの」)のように、シンプルな表現に訳し直されている。さらに池田廉訳(中公文庫)と森川辰文訳(光文社古典新訳文庫)とで日本語訳を見比べてみると、前者では「ご嘉納いただける品」、後者では「君主がより一層お喜びになるだろうと考えるもの」とある。後者のほうが「対格+不定法」の組み合わせと、“piú”のニュアンスを丁寧に訳出しており、より原文に忠実といえる。

以上を踏まえ、拙いながら冒頭一文をまとめて訳すと、「君主の下でご愛顧を賜ろうと望む者たちは、たいていの場合、彼らの所持品の中で最も大切な品々や、君主がよりお喜びになるであろう品々を携え、君主に謁見するのが常です」といった具合になるだろう。

今回の講義を通して、『君主論』の文章が、語彙レベルではもちろんのこと、構文論・文体論のレベルにおいても、現代イタリア語とは大きく隔たっていることが実感できた。10回に及ぶ「前準備」を経た我々は、マキャベリの時代の文章が現代イタリア語のようには読めなくて当然だと理解しており、こうした隔たりを不用意に恐れることはない。しかし、もしいきなり原文に突入していたとしたら、戸惑い、慄くばかりであったろう。そうした読み方では、表面をなぞるばかりで--このような「気楽」な読みが、各々の興味のきっかけになり得ることは認めるにしても--決して<読む>ことはできない。なんとなれば、<テクスト>は虚空から現れたのではなく、歴史の中で形作られてきたのだから。「これはいかなる<テクスト>か」という問いを携え、入念に準備をしてはじめて、我々は<間テクスト系>の海に漕ぎ出し、<テクスト>と出会うことができるのである。

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