イタリア語講座 第12回(1/17)講義録〔1/30改稿〕

中垣太良

今回の講義では、まず『君主論』の前回の講読範囲についてさらなる緻密な分析が行われ、続いて受講者の興味に合わせて、仏教について触れられた。

『君主論』の前回講読範囲を再掲しておく(Inglese版による)。

[1] Sogliono el piú delle volte coloro che desiderando acquistare grazia appresso a uno principe farsegli incontro con quelle cose che in fra le loro abbino piú care o delle quali vegghino lui piú dilettarsi;

『君主論』はロレンツォ・デ・メディチに宛てられた意見書である。肝心の君主にけしからん文書だと跳ねのけられてしまえば元も子もないから、文体には慎重さが求められる。とりわけ、上記に引用したような「献辞」の書き方には一定したものがあった(Inglese版の脚注では、同時代の詩人ヤコポ・サンナザーロによる『アルカディア』の冒頭との共通性が指摘されている)。

前回講義で指摘されたように、冒頭一文は述部が先、主部が後と、イタリア語の基本語順SVOと異なる。さらに今回、実はこれがラテン語的レトリックであることが明かされた。ラテン語ではいちおうSOVが基本語順であるが、格語尾によって各々の語の文中の役割が示されるから、実際の文例では無数の語順が咲き乱れる(そして、それが学習者を悩ます種でもある)。もちろん主部と述部の倒置なぞは当たり前にみられ、上記の引用はこうしたラテン語風レトリックを採ったものといえる。

さて、前回講義の解説に基づき、講読箇所の構成を試みに「図解」してみる。

  • 【 】:主部
  • 下線( _ ):述部
  • 〈 〉:名詞(句)の修飾句
  • ( ):副詞句

を表す。

[1]  Sogliono (el piú delle volte)【coloro 〈che desiderando acquistare grazia appresso a uno principe〉】 farsegli incontro (con quelle cose 〈che in fra le loro abbino piú care〉 o〈delle quali vegghino lui piú dilettarsi〉)

君主の下でご愛顧を賜ろうする者たちは、たいていの場合、彼らの所持品の中で最も大切な品々や、君主がよりお喜びになるであろう品々を携え、君主に謁見するのが常です。(拙訳)

これで万事問題なく読み進めることができる……ほんとうに? 実は、最後の副詞句(con quelle cose~)の部分に、まだ語学上の問題がのこっている。

con quelle cose 〈che in fra le loro abbino piú care〉o〈delle quali vegghino lui piú dilettarsi〉

問題となるのは並列されているうち二番目の修飾句である。まず、“delle quali”とは前置詞diと、関係代名詞句le qualiの結合形である。この前置詞diの役割はなんであろうか? と先生は問うた。

わたしは予習時、『伊和中辞典』のなかに発見した「vedere di+不定詞:…してみる,…するよう試みる」というイディオムに由来するdiだと考えた。他の受講生からは、delle qualiで英語の“by which”に当たるのではないか、という意見も出た。

すると先生は、英訳版と、仏訳版2つとを取り出し、当該箇所の訳文を示したうえ、さらに受講生自ら考える時間をとった。

◆英訳(Harvey C. Mansfieldによる。University of Chicago Press刊行)
〔……〕with things that they see please him most.

◆仏訳1(Yves Lévyによる。GF Flammarion刊行)
〔……〕dont ils le voient faire ses délices;

◆仏訳2(Marie Gaille-Nikodimovによる。Librairie générale française刊行の”Le Livre de Poche”シリーズ)
〔……〕dont ils voient qu’il se délecte le plus;

仏訳ではどちらも、英語の“of which”や“whose”を一語で表したものに当たる“dont”が用いられている。これはなんであるか? フランス語ではfaire ses délices de〜「〜をこよなく愛する」、se délecter de〜「〜を大いに楽しむ」といったように、ある対象への感情を表す述語において、その対象を前置詞deを伴って示す。このdeと関係詞を結合して表しているのが“dont”なのである。

『君主論』原文に目を戻そう。dilettarsiには、やはり前置詞diをある対象に伴い、「〜を楽しむ;喜ぶ」という意がある。“delle quali”とは、“dilettarsi di~”のdiと、関係詞le qualiを組み合わせたものであることが、はっきりとわかった。しつこいながら敢えて「図解」すれば、以下のようになろう。

con quelle cose 〈delle quali vegghino lui piú dilettarsi di
         ↖︎_____________/

さらに、こうした表現はラテン語における属格支配の動詞・形容詞(「ラテン語講座」2020年11月27日・12月4日講義録参照)に淵源することが指摘された。英語にはこうした属格支配の動詞・形容詞はかぞえるほどしかない(“please of~”のような言い方はしない)から、英訳ではそのニュアンスを出そうと苦労しているのがわかる。

さて、以上述べたような“delle quali”についての問題についてとんと気がつかずとも(あるいは、違和感をおぼえつつ通り過ぎたとしても)、日本語訳をすることはできる。しかし、今回限りは通じても、ありうべき重大な読みを自ら見逃してしまうことにつながりかねない。旧来の解釈に拘泥しないで鷹揚な「読む姿勢」をたもちつつ、同時にこうした語学上の問題に対して正確を期するのが原典流の読みである。

続いて、受講生の関心に合わせ、話題は仏教に移った。

まず披露されたのは、Anecdota oxoniensia; texts, documents and extracts chiefly from manuscripts in the Bodleian and other Oxford libraries. Aryan seriesであった。これは、ボドレアン図書館などオックスフォード大学附属の図書館が所蔵する写本資料を集めたシリーズであり、第一部は日本から英国に送られた仏教文献ーー「般若経典」のうち『金剛般若経』(梵:वज्रच्छेदिका)や『般若心経』(梵:प्रज्ञापारमिता ह्रदय सूत्र)、「浄土三部経」のうち『無量寿経』・『阿弥陀経』(この二つは梵語ではどちらもसुखावतीव्युहと同題であり、区別するために前者は「大経」、後者は「小経」と称される)を含むーーが収められている。次回講義ではこれらを参照することが予告された。

続いて、梵語仏教文献を読むための初等文法書として、K. L. Dhammajoti, Reading Buddhist Sanskrit Texts: An Elementary Grammatical Guideが紹介された。

さらには、チベットの代表的な仏教史書が3つ紹介された。まず、Târanâthas Geschichte des Buddhismus in Indien(校訂本と訳本からなる2巻本)が披見された。これはチョナン派(ཇོ་ནང་པ་)最後の大学僧ターラナータの記した仏教史を、フランツ・アントン・フォン・シーフナー(1817-1879)がロシアに保管されていたターラナータ著作集に基づき校訂・ドイツ語訳したものである。この英訳Tāranathā’s History of Buddhism in India(Lama Chimpa・Alaka Chattopadhyaya訳、Debiprasad Chattopadhyaya編)も参照された。続いて、この「ターラナータ仏教史」に並ぶチベット仏教史書、プトゥン・リンチェンドゥプ(བུ་སྟོན་རིན་ཆེན་གྲུབ་)による༄༅། །བུ་སྟོན་ཐམས་ཅད་མཁྱེན་བའི་ཆོས་འབྱུང་ཆེན་མོ་(「一切智者プトゥンの大仏教史」。通称「プトゥン仏教史」)が繙かれた。本書は我々が慣れ親しんでいる冊子本とは異なり、ペチャ(དཔེ་ཆ་)形式と呼ばれる、非常に細長い長方形の紙(木版両面印刷)が綴じられずに重ねられた、チベット独特のスタイルである。最後に、アムド地方のゴンルン寺の活仏たるスムパ・ケンポ(1704-1788)が著した、『パクサムジョンサン』(དཔག་བསམ་ལྗོན་བཟང་།「如意宝樹」)を、チャンドラ・ダス(Tibetan-English dictionaryで知られる)が校訂し、臨川書店が復刻した一冊が取り出された。

参照された文献の一部。一番上が「プトゥン仏教史」。

続いて、『蒙蔵梵漢和合璧金剛般若波羅密経』(蒙蔵典籍刊行会)が披露された。本書は、『金剛般若波羅密経』(梵:वज्रच्छेदिका प्रज्ञापारमितासूत्र、蔵:པགས་པ་ཤེས་རབ་ཀྱི་ཕ་རོལ་ཏུ་ཕྱིན་པ་རྡོ་རྗེ་གཅོད་པ་ཞེས་བྱ་བ་ཐེག་པ་ཆེན་པོའི་མདོ་)のモンゴル語訳・チベット語訳・サンスクリット・漢訳・日本語訳を掲載したものであり、翻訳・編集は真言宗豊山派の学僧橋本光宝・清水亮昇による。

最後に、弟子のケードゥプジェ・ゲレーペルサンポ(མཁས་གྲུབ་རྗེ་དགེ་ལེགས་དཔལ་བཟང་པོ་)が記したツォンカパについての伝記、རྗེ་བཙུན་བླ་མ་ཙོང་ཁ་པ་ཆེན༌པོའི་ངོ་མཚར་རྨད་དུ་བྱུང་བའི་རྣམ་པར་ཐར་པ་དད་པའི་འཇུག་ངོགས་ཞེས་བྱ་བ་(「尊者、偉大なるツォンカパの驚くべき素晴らしい伝記、完全なる解脱・信仰の道」。『信仰正道』とも)が登場した。

後半の仏教のお話については、先輩塾生と先生との間で交わされる会話についていこうと耳と目をかたむけるばかりであったが、わたしはいま改めて、先生と先輩方の言葉から、ときには語らずともその背中から、どれほど多くのものを受けとってきたかと思いをはせ、そしてどのような興味関心にたいしても、懐ふかく・ひろく返答をかえす原典研究所という<場>をもつありがたさを思う。

人生とはふみ出す第一歩が何より大切である。わたしの人生はまだはじまっていないが、その第一歩が原典研究所から意識的/無意識的に学んだ<生き方>を軸としてふみ出されることは、まちがいがない。

non est facile consequi beatam vitam, ut eo quisque ab ea longius recedat quo ad illam concitatius fertur, si via lapsus est;
(幸福な生をなしとげることは、やさしいことではない……だれでも、ひとたび道を誤ると、幸福な生に近づこうとはげしく駆り立てられればられるほど、ますますそこから遠ざかってしまう……といったように。)[セネカ『幸福な生について』、拙訳]

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