『原典黙示録』第18回(7/25) 講義録

『原典黙示録』第18回 講義録

田中大

今回から改めて『プラハの墓地』本文の読解が始まった。本テクスト冒頭部分における固有名詞に隠された含意はこれまでの講義において明らかにされてきたところであるが、今回は主人公の設定と本作品の語りの構造に関して、記述論的な解剖がなされた。

エーコはシモーネ・シモニーニという架空の人物を主人公に据え、彼を『シオン長老の議定書』の著者であるとしたが、史実においては、この偽書の著者はマシュー・ゴロヴィンスキーである。敢えてこのような記述をしたエーコの意図は何であるか。先生が指摘したのは、これがもしゴロヴィンスキーを主人公にした歴史小説であった場合、この作品は帝政ロシアにおけるユダヤ人の問題という観点しか出すことができなくなってしまうということである。無論、エーコが描こうとした問題はそのような具体的個別的な領域には止まるものではない。イデオロギーを生み出し、それに囚われてしまう危険性に常に脅かされている人間精神にとって普遍的な問題である。

作品によって描き出される問題が普遍的なものであるためには、主人公自身に属性がないことが望ましいが、しかし主人公が全くの無属性であればそれは作品として成立しなくなる。そこでエーコは、バリュエル神父――彼はテンプル騎士団以来の陰謀の歴史を論じた『ジャコバン主義の歴史のための手記』を著してフランス革命を支持した――に対してユダヤ人の危険性を説く書簡を送った謎の男シモニーニを、この作品を現実に繋ぎとめるための楔として採用した。彼の孫がこの作品の主人公シモーネ・シモニーニであり、「シモーネ」という名は姓のシモニーニに直接的に因む無色透明な名でありながらも涜神家を連想させる見事な命名になっている。

本文は、主人公シモーネ・シモニーニが「私」と語る手記の体裁をとっている。この手記において「私」と語る者の存在は、この手記に先立っては決して担保されていない。シモーネ・シモニーニとはこの手記そのもの、そしてこの手記の中にある「私」という記述によって先行され、それによって逆照射されて浮かび上がってくる存在である。この作品には主人公の紹介はない。この手記自体が主人公を浮かび上がらせるからである。本章最後の語り手の言葉は、彼がまさにこの写本の文体としてのみ立ち現れる存在であることを示している。

〈語り手〉でさえ、この正体不明の書き手が誰なのかまだわからず、〈読者〉と同様に興味津々覗き込んでそのペン先が紙に記していく文字を追いながら(〈読者〉と一緒に)知りつつあるのだから。

以上のような記述の構造において生み出される「文学空間」においては、イデオロギーと歴史の相互作用が非人称的な力でもって自ずから動き出す。これによって彼は以上のような普遍的な問題を中立的に、純粋に論じることに成功している。こうしたイデオロギーの問題は、最も表面的には憎しみの感情として現れる。続く第2章は、そういった生々しい憎しみの感情を主人公に直接的に語らせることで、本書の主題を暗示しているのである。

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