講義紹介 2020年7月18日(フランス語講座)

『方法叙説』講読は終に読了の日を迎えました。ABCより始めておよそ五年、この間、授業は週一回とはいえ、折に触れてデカルトの、そして先生の言葉を反芻しつつ過ごしてきたことから、もはや日々『方法叙説』とともに過ごしてきたと言って良いかもしれません。

 

今なお印象深く心に刻まれているのはデカルトの文体ですが、実に一語も増減すべからざる情理を尽くした大文章です。わたくしはそれを前にして茫然としたかと思うや、たちまち身中に勇気が湧き上がるのを禁じえません。宗教戦争の嵐は人々の生命を脅かすのみならず、口を開けたそばからその言葉を奪い取り、巻き込み、引き裂き消し去るものでした。そのような状況で自由に哲学することはできるのか。それは可能なのだということを『方法叙説』はまざまざと示しています。

 

僅々百ページ足らずのうちに一生涯の思考を注ぎ込む筆捌きが、荒海を行く船乗りの舵捌きを思わせるのも、時代状況と無縁ではないでしょう。特に第五章は鬼気すら感じさせますが、それを過ぎた第六章は平静さが支配するばかりです。しかしそれは闘いを終えた者の平静さです。第五章までデカルトは何かと闘い続けていたのです。デカルトが『方法叙説』を読み返したならば、一句ごとに嘗ての経験が蘇ってくるのを覚えることでしょう。書中、私事に亘ることはほとんどありませんが、彼の言葉はことごとく彼の生に裏打ちされており、さればこそ読者は一語も聞き逃すまいと耳を欹てるのです。『方法叙説』はデカルトの遺言であるとは先生の言葉ですが、それならばなおさらのことです。そして『原典黙示録』を含め、原典の講義を先生の遺言としてお聞きするとは、何たる因縁でしょうか。

 

いま改めてこの書を読み返してみると、初めの方で著者みずから断わっていた著述態度が完遂されていることに気付きます。言葉に誠を尽くすとはいかなることか思い知らされますが、先生の講義自体、それを体現しています。デカルトの言語は現代フランス語の源流に位置するとはいえ、今と異なる語義・語法が散見し、そのような箇所に逢着したときは、工具書を参照したり、先生の読書経験から示唆をくださったりなどしつつ読み進めてゆきましたが、これはまさしく「内外の古典の独習に挑みながら、全くの独力では越えがたい語学上の難所で挫折を余儀なくされている方々のために、『原文の読解力の涵養』を目的として各種の研究会を催す場として創設された」(原典研究所パンフレット所載「原典研究所創設のご挨拶」)という、いわば「建学の精神」の実践にほかなりません。我々参加者はこのような講義形式を当然のごとく受け止めてしまいますが、この「言行一致」は凄まじいものと言わねばなりません。しかしこのような教室に身を置いていたが故に、「現実を参照しながらデカルトを読む」ことが出来てしまったとは、何たる僥倖でしょうか。

 

――以上の文章を書いている時、実は各文の主語を「デカルト」とすべきか「先生」とすべきかしばしば混乱していたのですが、この精神状態の助けを借りて、はっきりと宣言しましょう。デカルトを理解したければ、原典に来たれ。講読は終わっていますが、それは些細なことです。

 

(三村)

 

 

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