『原典黙示録』第29回 講義録
田中大
今回の講義では、今後の講義の方針とそのための方法論という極めて重要な主題が扱われた。これまでの講義においても示されてきたように、『プラハの墓地』という作品は通常の小説とは質的に全く異なるものである。無論「単に書かれたものを読む」という態度ではこの作品を読み解くことはできず、したがってそのために単に「書く」writeということと、「読む」readということとを問題とするだけでは不十分である。ここで先生が指摘したのは、この物語は語り手が「語る」narrateことによって成立しているということであった。この作品は主人公が語ることによってその憎しみの内実を追体験させるものであるのだ。ではわれわれはその「語り」narrationをいかに読み解くべきであるのか。
記述論的に〈記述〉ないし〈読解〉を行う場合、単なる「書く」write、「読む」readという行為よりも、むしろそれらに対応するメタ的な行為、すなわち「書き換える」rewrite、「読み直す」rereadという行為が問題となる。ここで先生は「語る」narrateに対応するメタ的な行為として、「語り直す」renarrateという新たな概念を導入する。「語り直し」renarrationは、エーコの作品を単に反復することでもなければ、恣意的な読み換えを行うことでもない。それは語り手に代わって、その語りの「[記述論的]文体によって可能な[世界]経験の〈限界〉」にまで進むこと、すなわち語り手の魂、すなわち語りの文体を己の物としながら、その語り手の語らなかった――しかし必然的に語ることになる――先まで語るということに他ならない。作品の語りと先生の語り直しとの関係は、階層を異にするが位相を同じくする。われわれは語り直す魂に語る魂を透かし見るのであり、これこそこの作品を正確に理解する唯一の方法なのである。
以上のような方法論の提示に続いて、第一章と、第二章冒頭までの「語り直し」renarrationが実践された。今回の講義において先生がなしたこの語り直しを一字一句違わず再現することはできないが、仮にそれができたとしても、そのような記録は全く意味をもたないだろう。この語り直しは文字通り一度限りのものであって、その語り直す魂は、まさしくこの一回性の中にのみ、講義の場での体験としてのみ受肉する。この講義録において可能であるのは、その語り直しが残した痕跡を正確に辿り直すことだけである。
日記を書くという行為は、自意識過剰か無意識過剰による。日記とは誰かに読まれることを見越して書かれるものなのであって、純然たる個人の日記というものはない。しかし、シモーネ・シモニーニの手記の読み手となるような人物はいない。では彼が手記を書いたのはなぜか。彼には配偶者も子もいない。したがって彼には自分で自分を確かめる手助けとなるような他者が存在しない。そのような彼が失った記憶を思い出し自己を取り戻すためには、手記を書くことが必要であったのである。しかし、先生が指摘したのはこうした表面上の理由よりもさらに根本的な理由の存在であった。彼は係累をもたないことと引き換えに、夾雑物なしに時代とじかに結び付いている。そうした彼が試みる自己の再獲得は、必然的に彼の行動原理であるユダヤ人への憎悪の生々しい語りとなり、このユダヤ人への憎悪の語りは、19世紀における時代の著しい変化――それは当然ながらユダヤ人をめぐる問題の出来と不可分である――に動機づけられるとともに、その変化の体験の最も直接的な証言となるのであった。