『原典黙示録』第38回 講義録
田中大
先生曰く、「読みとは常に再読である」。自分自身で考えたことのない問題については、ひとはいくら読んでも理解することはできない。万象は己の〈原体験〉の光の下で初めて理解される。したがって解釈学的循環などというものはそもそも問題になりようがないのである。それは何ら原理的な問題ではなく、それを問題とする人間が視点のとり方を誤っているために生じる一種の錯覚に過ぎない。
言葉は自らの探究の裏付けがあって初めて意味を得る。本当の探究が切り開く道は常に新しい。そしてひとたび探究が終わったならば、探究者はもはやそれから自由になっているのだ。原典の講義が全て一度きりのものであるのも、それが先生自身の探究のありのままの反映であるからに他ならない。
こうした探究のためには新たな形式の創造が必要であることは言うまでもなく、場合によっては既存の形式の破壊も必要である――ユダヤ教徒たちにアガペーἀγάπηを説き、ユダヤ教の〈体制〉に臆することなく立ち向かったイエスのように――。そしてこの講義自体も、まさに「語り直し」という新しい形式の下において実践されている。
この講義は『プラハの墓地』の注釈である。しかし先生自身が言うようにそれは単なる本文の語句の注釈ではない。『プラハの墓地』と『原典黙示録』との関係は、『おんぱろす』に掲載されている先生の論文の本文とその〈註記〉Iとの、あるいは〈註記〉Iと〈註記〉IIとの関係と並行であるといってよい。〈註記〉の中で〈問題系〉は〈世界〉大にまで展開され、その本質と射程が露わにされてゆくのである。読み手[/聞き手]はそれによって、そこで論じられている問題が己にとって決定的な〈問題〉に他ならないことを悟り、まさにその瞬間に感動で「ほとんど青ざめる」ことになるのだ。