『原典黙示録』第39回 講義録
田中大
『プラハの墓地』冒頭にはエピグラフとして以下のような文言が引用されている。
歴史物語にとって派手なエピソードは欠かせないどころか、むしろ中核となるものである……こうした情景描写はいずれも百の騎馬試合に匹敵し、主要な事柄から読者の目を逸らすのにきわめて効果的である。
先生の語り直しは、記述論的なストイシズムの精神に基づいて、この「主要な事柄」のみを一切の過不足なく抉り出す。そのためには、以前の講義録でも書いたように、自由な空間がそれをなすための場として必要である。これは決してたやすく実現できる類のものではなく、私には「血みどろな〈わが闘争〉」(『PRELUDE』(I-7))の果てのぎりぎりのところに、ようやく一滴の透明な雫の如く生じるもののように思われる。
こうした空間の中でなければ人間の言葉は必ず何らかの歪曲を被る。歪曲された言葉は、もはや己の言葉ではない。今回の講義の中での先生の言葉の通り、この意味で記述論とは真に「私はこう考える」と語り出すことができるようになるための条件を準備する営みに他ならない。
無論一歩外に出れば、もはや同じ清涼な空気は満ちていない。そこでは何らの誠実な思索にも切実な体験にも基づかない「美しい」言葉が猖獗し、自らの言葉で語り出そうとする人間を窒息させてゆく。
しかしその中で生き残る術をも、この講義から私は既に学んでいるのだ。私は、外の世界で自らの言論を提示するためにエーコが展開した戦術的な語りと、自由な空間の中で先生が行った真正面からの語り直しとの間を往還し、それによって、己の自由を闘い取り守り続けるための在り方をも体得しつつあるのだから。