『原典黙示録』第40回 講義録
田中大
エーコの『プラハの墓地』の記述は、それ自体がある一人の人間の体験の直接的な「語り」となっている。エーコは自身が小説家として培ってきたあらゆる技術を活用して、この直接性を作品内に結実させたのである。この体験は先生の語り直しによって、直接性を些かも損なわずに、われわれ自身の問題として、われわれに降りかかることになる。
この作品において語られる体験の底には、全ての人間にとって根本であるところのものが煮えたぎっている。現代の意識家たちの潔癖症は、こうしたものを徹底的に排除しようとする。そしてそれらは既に半ば排除されてしまったのかもしれない。彼らの思考は自意識の婢であって、そこから生まれる「思想」に倫理的なものは何も含まれないのである。こうした偽善にいかに対するかということは、現代を生きるわれわれにとって切実な問題となる。
われわれは善く生きるために、このような偽善によって奪い取られたものを再び自己のうちに見出さねばならない。先生が講義の中で折に触れて指摘されるように、それを成し遂げた者とそうでない者との差は、これからどこまでも広がっていくことだろう。
有たぬ人は、その有てりと思う物をも、取らるべし。(マルコ:4:25)