講義紹介 2017年10月・11月(世界史講義)

世界史講義は11月4日で113回を迎えました。引き続き「ユーラシア」という単位での歴史をどう眺めるか、という問題意識に導かれながらの講義となっています。

主な問いは次のようなものです。即ち、スキタイや匈奴などの民族はいつも文明を脅かす蛮族として描かれてきたけれども、その描像は果たして妥当なものだったか、そしてそれが適切でないとすればどのような捉え方が可能か、といったことです。講義のなかでは、実際にスキタイや匈奴という語がどのようにテクスト中に出てくるか、ヘロドトスや司馬遷の原文を参照しました。

中央ユーラシアを扱うに際して困難なのは、モンゴル語やトルコ語の資料が、それぞれ13世紀や8世紀にならないと表れない、ということです。だからこそ他の文明にとっての蛮族として描かれてきたのであり、その語りが歴史として受け取られてきたわけです。

もう一つの困難は「シルクロード」の存在かもしれません。というのはつまり、特定の独立した地域が問題になっているのではなく、人々が行き来し、時には留まり宗教や生活習慣を変え、といった動的な活動の全体を見渡す必要があるということです。実際、シルクロードの東方つまり中国にも、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教、ゾロアスター教などの少数派が存在していました。

さて言語史料の裏側に迫るためには、考古学などの研究に頼る必要があります。たとえば馬具がどこで発見されているかといったことは貴重な手掛かりになります。もうひとつの方法は、想像力です。ひょっとするとトルコ系、モンゴル系が中央ユーラシアを掌握する以前にこの地にいたのは、他ならぬインド・ヨーロッパ系の人々だったのではないか――そしてこれはあながち無理な想像ではない、ということがこれまでの講義からは伺われます。

世界史を扱う際につねに気に留めるべきは「何を主体として語るか」ということであると思われます。ここまで「○○語系」といった仕方で民族が主語となってきました。あるいは宗教、特に聖典を奉ずる人びとが主語となり、世界史が語られてきました(そうではなく、より生活形態などに重点を置いた「文化史」という語り方もあるわけです)。このことの意味はおそらく、今日の我々が世界史にどう向き合うか、というその方法意識と切り離せません。「世界史」はつねに現在の我々から見た状況にほかなりません。世界史講義は漸う「仏教」へと問題を移していきます。仏教が現実化する条件として、シルクロードないし中央ユーラシアの状況が見て取られたのでした。

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