『原典黙示録』第44回 講義録
田中大
今何が起こりつつあるのか。それを正確に理解するには、これまでの講義において実演されてきたように、記述論的に世界を見るほかない。本講義の中で記述論は、「あらゆるテクストを読解するための方法論」というその第一義を大きく越えて広がり、人間の営為一般を理解することが可能な唯一のアプローチとして様々な相貌を見せながら威力を発揮してきた。
今回先生によって指摘されたのは、黙示録と預言は全く異なるものである、ということであった。本来の意味での「預言者」はユダヤ教にしかいない。彼らは「われわれ」の一員として、神の言葉を預かり、それを預め伝えることによって「われわれ」を直接神と結び付けながら導く存在である。遊牧民族として各地を放浪していたユダヤ教徒は、Agendaを授けて自分たちを導く存在を必要としたのだ。預言とは、神が与えるところのAgendaという概念と全く不可分なのである。
翻って黙示録とは、Revelationと呼ばれることからもわかるように、「隠されていたものが明らかにされること」である。ヴェールが取り払われて露わになった真実に対していかなる態度をとるかということは、完全にその読み手[/聞き手]に委ねられている。いかなるイデオロギーからも自由な記述論が語り出すものが『原典黙示録』と名付けられたのは、必然なのであった。
先生曰く、記述論はいかなる対立概念ももたない、と。どのような概念も対立概念をもつが、それらは拮抗しながらも互いに支え合い、そのようにして初めて、或る意味領域を確保した概念として共に成立する。これに対して、記述論はそれ自体が無限の場として存立する、そのため厳密には定義不可能なものとして在る。しかしそうであるがゆえに、それはまさしく端的な自由の場であり、言語主体にとってのアルファにしてオメガτὸ α καὶ τὸ ωなのである。