『原典黙示録』第45回(3/13) 講義録

『原典黙示録』第45回 講義録

田中大

意識とは言語主体である。ゆえに、我々にとって言葉とは常に世界についての言葉であり、世界とは常に言葉によってそれについて記述されるところの世界である。この世界と言葉との分かち難い結びつきを捨象しては何も正確に探究することはできない。ここに現象学の誤謬があったということは、『おんぱろす』所収の先生の論文が明らかにしている通りである。言葉を無視した事象Sacheの厳密な認識などというものをめぐる問いが、人間にとって根源的なものを射当てることは決してない。何となれば、人間の根底にあるのはむしろ言語体験であって、事象の厳密な認識というものは――こうした認識が可能であるとすれば――、その体験によって基礎づけられてはじめて成立し得るものだからである。記述論的次元において生じているこうした事態への理解を抜きにしては、世界において生じる様々な事件Sacheに対する理解も、常にごく表面的なものにとどまるだろう。

しかしながら、それがどのような性質のものであれ、何らかの事件について論じるに際して、記述論的な次元まで潜行してから探究するということは、極めて長く険しい迂回路を通ってゆくことを要求する。これまでの講義は全て、この意味での回り道であったということもできよう。しかし、逆説的ではあるが、実はこの道こそが最短の捷径なのであり、ただひとつの正道なのであった。世界において生じた事件をただ言葉によって写像し、それを知識として蓄えるという一見最も直接的であるかに見えるアプローチは、我々のあり方そのものに関わる領域から完全に切り離された一種の知的操作でしかない。人間は事実の枯木だけが林立する荒野に生きるわけではないからだ。したがって、ひとはこうした方法によってことがらそれ自体に肉薄することはできない。原典研究所の講義の主眼はそのような事実の知識を伝達することではなく、今まさに起こっている事態の総体を、〈[全]体験変容〉 ErlebnismodifikationE. Husserl)として体験し尽くさせることにある。体験が体験されるところから、全てが始まるのだ。

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