『原典黙示録』第55回(5/22) 講義録

『原典黙示録』第55回 講義録

田中大

「黙示録」であるのは、『プラハの墓地』という作品それ自体ではなく、それについて語るこの講義そのものである、と先生はしばしば強調される。この小説はあくまで一つの歴史小説として100年前の過去を描く物語であるのだが、先生の〈読み〉が、それを現代を生きる我々の生と地続きのものとして見出してゆくのである。しかし、これは決して誤読ではない。『プラハの墓地』という作品が、このような〈読み〉を要請するからである。

ただ内在的に完結した形で、己と切り離して読めてしまう文章とは異なって、『プラハの墓地』は我々が現実に生きることと密接に関わる〈テクスト〉である。そのために本書を正確に読むことは困難を極めるのであるが、またそうであるがゆえに本書は読むに値するのだ。

テクストを内在的な論理に従って読み解くということは、常に読むという行為の目的ではなく前提となるのでなければならない。そしてこうした読みの態度を要請するテクストこそが価値ある〈テクスト〉なのである。このような〈テクスト〉を相手にするのでなければ、読むという行為は自己目的化の小さな輪の中に閉ざされた空虚な営み以上のものではありえないであろう。それはせいぜい単なる娯楽でしかないのである。

原典研究所において読解されるテクストは常にこのような意味で価値ある〈テクスト〉である。初めは自己にとってfremdなものであったテクストが、講義における先生の語りと参照される様々な書物を通じて、自己にとって決定的な問題を鋭く突き付けるものとなり、やがて現実の生と一続きになる。それと同時に自己の生は新たな局面に至り、私は文字通り生まれ変わるのである。

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