講義紹介 2018年1月(ドイツ語講座)

エセーなどの論理的な文章では主題を提示した後に例示と補足が続くので、主題文を拾い読みすることで大意を知ることができる、とは高校時代の英文読解の講義以来、齋藤先生に教わってきたことです。
今回の講義で扱った箇所、緒論2の前半において、シュペングラーは「歴史は繰り返すという意識について」という主題のもと、歴史上の人物ないし事件が類比された例を挙げています。
アレクサンドロス、ナポレオンのような著名な人物からカール12世、フルーリー枢機卿のように広く知られてはいない人物までが取り上げられ、古代マケドニアの対ギリシア政策や18世紀のヨーロッパ外交史の知識がないと理解できない箇所もありました。
シュペングラーは固有名詞に注をつけていないので『西洋の没落』は自分で読もうとすると難解ですが、原典研究所では書物をして歴史を語らしめ、シュペングラーの言わんとするところを理解させるだけでなく、世界史上の人間の営為を実感をもって追体験させてくれます。
アリアノスの『アレクサンドロス東征記』、エインハルドゥスの『カール大帝伝』は我々がこの二人の帝王について知りうることの原資料であり、これを目の当たりにすることで歴史(学)を身近に感じることができました。
ジャン・テュラールの大部の『ナポレオン辞典』 はフランス人にとって、あるいはヨーロッパ人にとってこの「馬上の世界精神」(ヘーゲル)がいかに重大な転機であったかを実感させます。
フルーリー枢機卿(ルイ15世の宰相)の外交政策は、グーチ『ルイ15世』を読むことで理解することができました。
(阿部)

4 thoughts

  1. 緒論2で問題となっている歴史上の人物と事件を解説しようと思うのですが、対象が多岐にわたるため、区切りがよいところまで書いたらコメントで投稿することとします。

    アレクサンドロス、カエサル、ナポレオン
    カエサル、ナポレオン、より最近の人物ではヒトラーは「民主主義が生んだ独裁」として類比されがちです。
    しかし、シュペングラーの形態学の立場からすれば、権力の獲得手法という外面的な一点での類似だけに着目するのは断片的、恣意的であり、ナポレオンと比較しうるのはカエサルではなくアレクサンドロスということになるでしょう。
    緒論の最後に掲載されている表を確認すると、アレクサンドロスとナポレオンはともに文化から文明への転換点に位置づけられているのに対して、カエサルは全く文明時代の人物として位置づけられていることが分かります。
    この本が書かれたのは第一次大戦中ですから、もちろんヒトラーには言及されていません。
    この表では2000年まで貨幣の支配(民主主義)が続き、カエサル主義は西洋においては2000-2200年に来るだろうシュペングラーは予測していますが、「貨幣に対する暴力の勝利」「群集が帝国に集約される」という描写から判断すれば、20世紀というイデオロギーの時代における全体主義(ナチズム、共産主義)はカエサル主義と比較できるのではないかと私は考えます。

  2. ランドパワーとシーパワー
    ここではジャコバン派が革命フランスをローマに、イギリスをカルタゴに譬えたことが取り上げられています。シーパワー(海洋志向の商業国家)とランドパワー(大陸志向の軍事国家)の相克は地政学の大問題です。

    都市国家として出発した共和制ローマはエトルリア人、ラテン系の他部族、ガリア人と戦った後、イタリア南部のギリシャ人植民市を征服して―このときギリシア人を救援してローマと戦ったヘレニズム君主が「ピュロスの勝利」で有名なエペイロスのピュロスです―イタリア半島の覇権を握るランドパワーとなりました。一方のカルタゴは航海と商業に秀でたフェニキア人の植民市で、今のチュニス付近を中心とし、西地中海の覇権を握るシーパワーです。
    地図を見ていただければ分かりますがチュニスとイタリア半島はシチリアを挟んで目と鼻の先であり、第二次世界大戦の際にも、連合軍はアフリカにおいてドイツの機甲師団を破ったあとに、チュニス→パンテッレーリア→シチリア→イタリア本土と侵攻したのです。商業上の利権争いなどもありますが、軍事的にも互いを脅威と見做すのは当然でした。
    シチリアを巡って両国の間で先端が開かれます。(第一次ポエニ戦争 紀元前264年から紀元前241年まで ポエニ:ラテン語でフェニキア人のこと。)
    シチリアにおける陸戦ではローマが勝利を収めましたが、海上ではカルタゴが優勢であるため、ローマは北アフリカのカルタゴ本国を攻撃できません。この戦争は23年間続き、すでに支配下においていた南イタリアのギリシア人の海軍力を利用しつつ自身でも艦隊建設に取り組んだローマが海上でも優位に立つことでローマの勝利で終結しました。
    ローマがイタリア半島で台頭し第一次ポエニ戦争でカルタゴを破るまでのこの期間(紀元前327年から紀元前241年まで)、戦争をしていなかったのはわずか5年であったとのことです。(アルヴィン・H・バーンスタイン 「戦士国家の戦略 ローマの対カルタゴ戦争」 『戦略の形成』第三章)
    カルタゴの更なる弱体化を目論むローマと、復讐を期するカルタゴは今度はイベリア半島を巡って第二次ポエニ戦争(紀元前218年から紀元前201年まで)に突入します。カルタゴの将軍ハンニバルはアルプスを越えてイタリア半島に入り、陸戦で連戦連勝してローマを恐慌に陥れますが、ローマの持久戦略とイベリア半島および北アフリカ本国での劣勢により、カルタゴは再び敗北しました。
    もはや抵抗する力を失ったカルタゴをローマは第三次ポエニ戦争(紀元前149年から紀元前146年まで)で滅ぼします。カルタゴ人は総人口50万人のうち生存者が5万5千人になるまで戦い、生き残りは奴隷として売られました。カルタゴの領土は徹底的に破壊され、町が17日間燃え続けたとのことです。(モンタネッリ 『ローマの歴史』)

    革命フランスの指導者たちはフランスをローマに譬え、イギリスをカルタゴに譬えることでイギリスを滅ぼしてやると息巻いていたわけです。
    では、革命フランスはイギリスを地上から消し去ることができたしょうか?
    そうはいきませんでした。軍事的にもイデオロギー的にも革命フランスを脅威とする他のヨーロッパ諸国はイギリスを中心に同盟を結び、フランスに対抗します。細かい経過は省きますが、イギリスが海での優位―例えばトラファルガー海戦での勝利―を、フランスが陸での優位―例えばアウステルリッツ会戦での勝利―を保ち睨み合いになります。このバランスが崩れるのはナポレオンの1812年のロシア遠征の失敗で、陸でも対仏同盟軍の側が優勢に立ちました。1815年にナポレオンがワーテルローの戦いで最終的に敗れたあと、第一次世界大戦が勃発するまで比較的安定な「ヨーロッパ協調」の時代を迎えます。

    古代ギリシアの研究者であるドナルド・ケーガンはペロポネソス戦争―ランドパワーであるスパルタがペルシアの援助を受けて艦隊を建設し、シーパワーであるアテナイを海戦で破ることで最終的な勝利を収めた―を分析し、両陣営とも勝利するためには相手が得意とする分野において優位に立たなくてはならなかったと論じています。(『戦略の形成』二章 「ペロポンネソス戦争におけるアテナイの戦略」)
    この分析はポエニ戦争にもフランス革命戦争にも当てはまるのではないでしょうか。

    以上、ポエニ戦争とフランス革命戦争の地政学的な類似を洞察しましたが、まだジャコバン派の類比の一面的な意味しかお伝えできていません。
    ジャコバン派が革命フランスをローマに、イギリスをカルタゴに譬えたことは、ローマとフランスを徳の共和国と見做し、堕落した商人国家であるカルタゴとイギリスに対置する道義的確信にも起因しているからです。
    革命の熱狂はフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」を聞いていただければある程度は伝わるかもしれません。

    また、フランス革命は傭兵中心の18世紀の軍隊に変わって徴兵による国民軍を登場させ、規模においても戦術においても戦争を一変させましたが、軍事史にまで言及する余裕がありませんでした。ポエニ戦争の際にはローマが市民軍、カルタゴが傭兵軍でしたので、ジャコバン派の類比は軍隊の編成という観点から考えることもできます。
    ここではこの戦争の変化を説明した文献で、邦訳の文庫本として入手できる良書を紹介するにとどめます。
    マイケル・ハワード 『ヨーロッパ史における戦争』 第五章「革命の戦争」
    ウィリアム・マクニール 『戦争の歴史』(上) 第六章「フランス政治革命とイギリス産業革命が軍事に及ぼした影響」
    他のヨーロッパ諸国もフランスに対抗するため、国民国家を創設する政治改革、国民軍を建設する軍事改革を迫られます。プロイセンはイエナの敗北のあと、フランスに追いつけ追い越せでこの改革を推進します。その改革派将校のひとりがクラウゼヴィッツでした。『戦争論』もフランス革命の影響のもとに書かれています。
    私はこうした軍事史上の問題をCubicArgumentで三森さんに教わっており、原典研究所の待合室で販売している第13号機関紙にも軍事講座の資料をまとめた三森さんの論文が掲載されているのでご覧になって下さい。

  3. 原典研究所には図書室が設けられており、蔵書(全て主宰の私物)に囲まれて塾生同士で談話しつつ、講義が始まるのを待ちます。参加者が揃い、先生が図書室の扉を二回ノックしたら講義開始です。

    上記二件のコメントは、阿部君が講義の前や帰り道に参加者と話していた内容に基づくものです。

    投稿本文に比して繁簡宜しきを得ぬ憾みはありますが、塾生同士の交流の一形態を示すものとしてお読みいただければ幸いです。

    ところで塾生同士の交流においてやりとりされているものは一体何なのでしょうか。それを考察する縁とするために、世界史講義についての投稿では「知識」と「知」を使い分けてみたのですが……。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です