『原典黙示録』第61回(7/3) 講義録

『原典黙示録』第61回 講義録

田中大

今回の講義の主題となったのは、正統と異端という問題である。先生は終始記述論的な態度でテクストを正確に読み解きながら、この恐るべき大問題に察々の明を以て鋭く切り込む。

先生がまず参照したのはRobert W. Funk et al., The Five Gospelsであった。これはアメリカで史的イエスの研究を行っている団体であるJesus Seminarがイエスの実際に述べた言葉を突き止めるべく福音書を研究した成果をまとめたものである。ではなぜ“Five”なのかといえば、新約聖書に含まれている四つの福音書のほかに、外典『トマスによる福音書』をも取り上げているからである。

『トマスによる福音書』の存在は、古代の教父らの証言によって既に知られていたものの、長らく失われたままになっていた。19世紀末、プラトンなどの古代ギリシア哲学文献の断片を含む「オクシリンコス・パピルス」が発見されたが、そこにはギリシア語の『トマスによる福音書』の断片が含まれていた。しかし発見当時にはこれが『トマスによる福音書』の一部であるということは認知されず、さしあたり「イエスの語録」Λόγια Ἰησοῦとのみ呼ばれていた。この断片が『トマスによる福音書』であることが判明するのは、かのナグ・ハマディでの発見の後のことである。1945年になって発掘されたナグ・ハマディ文書の中には、コプト語の『トマスによる福音書』の完本が含まれていたのであった。他のナグ・ハマディ文書のテクストと同様、これも当時の地中海世界の公用語であったギリシア語で書かれていたテクストがコプト語に翻訳されたものであると考えられるが、この失われた福音書の全貌が明らかになったことは失われた神の言葉の探究者にとっては誠に僥倖であった。

この福音書の特徴は、正典の四福音書とは異なり、物語形式の福音書narrative gospelではなく、「イエス曰く…」と彼の言葉を並べた語録形式の福音書sayings gospelであるということである。このような初期キリスト教文学における語録形式の作品が実際に発見されたということは、マタイ及びルカがそれぞれマルコの福音書と別にイエスの語録資料である文書――すなわち“Q”(この呼称はドイツ語で「源泉」sourceを意味するQuelleに由来する)――を参照して福音書を書いたという資料仮説に裏付けを与えることとなった。

Qとはいかなる文書であるか。ここで先生が繙いたのはK. Aland(ed.), Synopsis Quattuor Evangeliorum(邦訳『四福音書対観表』(ただしこれは希英対訳版の翻訳))であった。これは『新約聖書』に含まれる四福音書の並行記事を対照したものである。巻末には『トマスによる福音書』が収録されており、旧版では羅英独対訳が、新版ではコプト語本文と英独対訳、さらにオクシリンコス・パピルスのギリシア語断片とコプト語本文とを参照し――チベット語訳仏典からサンスクリット語原典を復元するが如くに――復元されたギリシア語本文まで掲載されている。

本書を参照すれば一目瞭然、マタイ・マルコ・ルカの三福音書に共通箇所が多く存在することが見て取れる。そして共観福音書と呼ばれるこれらの三福音書の本文の異同を仔細に検討すれば次のことが分かる。まずマルコ本文の大半については、その並行記事がマタイとルカにも見出されるが、逆にマタイとルカの本文の並行記事はそれぞれマルコ・ルカ、マルコ・マタイの本文にはあまり多くは存在しないということ。マタイとルカにおいて出来事の年代順配列が一致する場合、それは必ずマルコの記述にも一致しているということ。そしてマタイ・ルカの並行記事のうちには、マルコに含まれないものも膨大にあるが、それらのほとんどがイエスの語録からなっているということである。このような発見を含む様々なテクスト的事実を踏まえ、マタイとルカがマルコを参照しながらそこにQに収録されたイエスの語録を組み込む形でそれぞれの福音書を完成させたという二資料仮説や、マタイ・ルカのそれぞれがマルコ・Qのほかに一つずつ固有の資料を参照したという四資料仮説などが提唱されることとなった。そしてこのような仮説の下で、研究者たちの熱意溢れる壮大な探究によって復元されたQ本文(=イエスの言葉)がJ. S. Kloppenborg et al., Q—Thomas Reader(邦訳『Q資料・トマス福音書』)やJ, M. Robinson et al.(eds.), The Critical Edition of Qにおいて実際に確認された。

では、このようにイエスの言葉そのものへと遡る営みは、一体いかなる意義をもつのか。ここで先生はおよそ25年前の原典研究所創設当時の講座案内を私たちに示す。そこに掲載されているギリシア語『新約聖書』研究会の紹介文曰く、「「イエスによる福音書」 キリスト教の生誕」。先生付け加えて曰く、『福音書』というものは、「イエスによる福音書」として読まれねばならないのだ、と。見事に一言以て之を蔽う、この言葉に瞠目しない者があろうか!原初の神の言葉へと遡るために、われわれは原典を読むのだ。厳密な文献学的分析を前提とし、そのうえでどこまでも正確にテクストと向き合うことによってのみ、われわれは記述の中で神々と出会うことができるのである。

やがて聖書はラテン語に翻訳され、Vulgataが成立した。この過程において、ギリシア語原典にわずかに残されていた原初の言葉の細かな感触は、一様に埋め立てられてしまうことになる。Vulgataはローマ・カトリック教会公式の聖書となるが、すると彼らにとっての「聖書」とはまさにこのVulgataを措いて他にないということになった。そうなればもはやそれ以外の言語で書かれた聖書の言葉など、彼らにとってはさしたる重要性ももたなくなる。否それどころか、端的にいうならば「Vulgataに含まれない思想」が異端として排除されていくことになる。こうした異端の排除の裏返しとして成立した正統は、一枚岩ではあり得ず、必然的に様々な会派がそのうちに生じてくる。そこでは、以上のような原初のイエスの言葉をめぐる研究者たちの誠実な探究とは全く無縁の政治的/イデオロギー的党派闘争が生じるのみである。こうしたことを知らなければ、バチカンを理解することはできない。

テクストを読む先生の眼光は紙背に徹し、さらに現実世界へと突き抜けてゆく。参照された書物の山から目を上げて、先生は現実の政治的状況について言及する。現実の国際政治状況においても、およそ13億人の信徒を擁するバチカンの影響力は計り知れないものである。現代の世界情勢を正確に見通すためには、以上のような思想史の「暗部」についてもよく知っておく必要がある。蓋し、こうした政治的表層を、単なる表層の問題として取り扱うだけでは、猛烈な変動の洪濤に翻弄されるだけで、何も理解することはできまい。現実世界の白々しい明るさは、深層の暗闇に発する。知らねばならないのは深層である。こうしたことを真正面から取り扱うとなれば――この講義がそうであるように――、それは文字通り命懸けの営みである。しかし、そこから歩みだすのでなければ、ただ酔生夢死あるのみ。恐れてはならない、苟も覚者たらんと欲するならば。

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今回の講義ではイエスの〈言葉〉からローマ・カトリックという〈制度〉が立ち上げられてゆく歴史的経緯について具に辿ってきた。しかし『原典黙示録』の探究の主眼は常に現在の政治的状況とそれに続く未来の結末にある。次回は現代のローマ教皇庁の問題について直接的に問われることになると先生は予告する。それによってこの途方もない問題系の残された側面が全て語り尽くされることになるだろう。

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