『原典黙示録』第64回 講義録

『原典黙示録』第64回 講義録

田中大

今回はまず、三村さん提供の『三菱の至宝展公式図録』に掲載の、三菱創業者一族岩崎家が収集した古典籍(現在は東洋文庫に収蔵)の中から、先生の目に留まった原典が披露された。

まず、浩瀚なる般若経典の中でも最古のテクストとみられている『八千頌般若経』अष्टसाहस्रिका प्रज्ञापारमिताが参照された。これはサンスクリット語原典とチベット語訳が現存するほか、鳩摩羅什訳や玄奘訳(『大般若波羅蜜多経』第四会・第五会)等の漢訳が存在する。講義で登場したのはインド版のサンスクリット語原典と、チベット語訳――雲南省で出版された貝多羅葉の写本を模した形式で印刷されている特別な装丁のテクスト――であった。

続いて言及されたのは『大方広仏華厳経』महावैपुल्य बुद्धावतंसक सूत्र(所謂『華厳経』अवतंसक सूत्र)である。この『華厳経』のサンスクリット語原典全文は残っておらず、完本としては二種類の漢訳――仏陀跋陀羅による60巻本と実叉難陀による80巻本――が伝わっているのみである。しかし、そこに含まれるいくつかのテクストのサンスクリット語原典は残存している。本経典末尾に置かれている『入法界品』गंडव्यूहもその一つである。これについてはインドから印刷機を日本に取り寄せ、デーヴァナーガリーの活字を組んで印刷、出版したという鈴木大拙編『梵文華厳経入法界品』が参照された。

さて、今回は原典研究所所蔵の仏教経典が紹介されたわけであるが、これに加えてごく簡潔に非常に重要な観点が提示された。すなわち、宗教は言語の地政学である、と。蓋し、イスラーム帝国が中東と北アフリカ一帯を征服したことによってアラビア語が土着の言語に取って代わったように、特定の宗教の膨張のために言語分布が塗り替えられることもあるだろう。宗教によって、言語は押し拡げられる。

同時に、言語は宗教の拡がりの限界を画定する制約である。ゆえに翻訳ということが問題になる。例えば今回扱われた仏教については、ブッダがマガダ語で教えを説き、時代が下ってそれがインド内に広まるにつれてパーリ語やサンスクリット語に翻訳され、またインドの外へ伝わる中でチベット語訳仏典、漢訳仏典が作られた。またここ数回の講義で詳しく論じられてきたキリスト教については、イエスがアラム語で説教をし――かの「Q資料」もはじめはアラム語で書かれていたかもしれない――、やがてそれがコイネーギリシア語によって表現され、それはさらにラテン語、コプト語、ゴート語、シリア語、古アルメニア語、古グルジア語、ゲエズ語、古スラヴ語、アラビア語などに翻訳されていった。因みに、これらの聖書は全て原典研究所に揃っており、以前の『世界史概説』でも登場した。

翻訳によって言語の違いを越えて神々についての体験は伝えられ、翻訳先の言語に新たな文体が創出される。それは時に言語史のエポックにもなり得る。ルターのドイツ語訳聖書が初期新高ドイツ語を豊かに成長させ、欽定訳聖書がシェイクスピアの諸作品とともに現代英語の礎を築いたように。ここに翻訳の驚嘆すべき問題がある。ごく素朴に記号論的に思考する者にとっては、翻訳という行為には何の不思議もないだろう。しかし翻訳というものがもし記号論的な営みであるとするならば、それはここまで創造的な営みではあり得ないはずだ。

そこで改めて記述論的な意識をもって異国の言語に対面するとき――そうするためにはやはり「本物」を実地に体験することが必要である――、ひとはたじろぎを覚えずにはいられないだろう。しかし、ひとたび飛び込んでしまえば、無限を内に含んだ跳躍というものがあることを知るのである。これはごく微小な――しかし決定的な――気づきである。ここから世界大にまで視野を拡大してゆけば、上に引いた先生の言葉の意味も、自ずと明らかになってくると思われる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です