今回は、普段この講義を受講していない私がドイツ語講座を覗いてみた、その報告をしたためます。
内容としては、シュペングラーの „Der Untergang des Abendlandes“ の講読で、詳細は阿部君の報告をご参照いただければと思います。
今回読んだ箇所には例えば次のような文章があります。
Das Mittel, tote Formen zu begreifen, ist das mathematische Gesetz. Das Mittel lebendige Formen zu verstehen, ist die Analogie. Auf diese Weise unterscheiden sich Polarität und Periodizität der Welt. (Einleitung, §2)
この断定的なスタイルは、いかにも方法論的な導入に相応しいものです。しかしこうした命題に直面したとき、読みの態度としてはいかなるものがありうるでしょうか。講義で展開された読みは、原典研究所の真面目を示していたようにも思われます。
即ち、死んだ形式(tote Formen)がmonumentであるのに対し、生きた形式(lebendige Formen)とはdocumentのことである。生きたものとは畢竟「読める」もののことである。「類推Analogie」と上に言われるのは、必然的に言語的な類推である。生きたものは言語的な類推によって理解されるのである、とこう言い換えられるわけです。(PolaritätとPeriodizitätについては後に詳述されるようです。)
「類推」の具体例については、続く本文に記されています。ただこの読解において注意すべきは、「生きた形式」というものもまた具体的に接近可能な、現実的なものとして与えられるのだということでしょう。何か計測可能なものとして与えられていないからといって、ふわふわした抽象的なものとして与えられるというわけではありません。その具体的な形式こそ言葉だというわけです。
そのことは教室の中で実演されました。シュペングラーの挙げる例ごとに、それを確かめるためのテクストが引き出されてきます(これも個別的な例については阿部君の記事をご覧ください)。つまりこれがテクストを読むということでしょう。テクスト中のそれぞれの語は、あいまいな印象を伝達するものではなく、他を参照するものであり、従って読者もまたそれを参照しうるということによって意味を持ちうるものです。そして原典研究所の傑出したところは、その参照すべきテクストが――つまり読解のための条件が――ほぼすべて揃えられているということです。これが「フェアプレー」のための条件なのだと思われます。
ひょっとするとこの点から、つまり「テクスト」の存在論的な意義を見定めるところから、シュペングラーの方法を批判的に検討する道が開けるのかもしれません。いずれにせよ肝心なのは、歴史学が「生きた形式」を相手にせねばならないということですが、そこへ「読めるものは生きている」というテーゼを噛み合わせてやるという点に、原典研究所の一つの態度表明を見た気がいたしました。
(宮田)
One thought