1月の『エウテュプロン』講義では非常に興味深いお話がありました。
ギリシア語古典の原文を読むための本としては、オックスフォード大学から出版されているLOEBシリーズが最もポピュラーで、手に入りやすいです。受講生は、先生が講義で使用するバーネット版プラトン全集の本文のコピーと、各自持っているLOEBの両方を参照しつつ講読しています。
昨年、このLOEBシリーズのプラトン対話編の新版が出ました。それ以前の版は1914年のものですから、実に100年ぶりの改版ということになります。この改版にあたって、原文に添えられている英訳も一新されているのですが、『エウテュプロン』という作品の主題に関わるような翻訳の変更があったのです。
エウテュプロンは、自分の父親を殺人の罪で訴えようとするのですが、彼の身内の者たちはそれを不敬虔であるとして諌めます。それに対して彼が不満を漏らしている次の台詞が、問題の箇所です。
κακῶς εἰδότες, ὦ Σώκρατες, τὸ θεῖον ὡς ἔχει τοῦ ὁσίου τε πέρι καὶ τοῦ ἀνοσίου.
後ろから四番目のπέριという語(前置詞)の解釈が違うために、二つの版でこの部分の翻訳が異なっているのです。
(1917年版訳)ソクラテスよ、神に関わることが、敬虔と不敬虔とに関してどのような関係にあるかを彼ら(エウテュプロンの身内の者たち)はろくに知らない。
(2017年版訳)ソクラテスよ、神に関わることが、敬虔と不敬虔よりも上位にあることを彼らはろくに知らない。
『エウテュプロン』は「敬虔」がテーマであると解され、後世の人間によって「敬虔について」という副題を付けられて、読み継がれてきました。1917年版の読み(つまりは伝統的な読み)は、そのような解釈と特に矛盾はしません。しかし、2017年版の読みはどうでしょうか。あくまで出来合いの解釈に従う姿勢で読むならば、おそらく「少し翻訳が変わっただけ」と思って終わりでしょう。しかし、「対話」するようにテクストを読むならば、この作品のテーマは本当に「敬虔」であると考えてよいのか、という疑問がここで生じます。この疑問の先に何が待っているのかはこれからの授業で明らかになっていくことでしょう。しかし、その疑問によって、2000年以上も前に書かれたこのプラトンのテクストが、誕生したときの輝きをまた新たに取り戻すかもしれないということが重要なのです。この輝きを追体験することこそ古典を読む意義なのですから。テクストと対話する姿勢がなければ、せっかく読んでも、結局は陳腐な言葉と出会うだけ、ということになりかねません。
原典研究所は、こうしたテクストとの対話の場なのです。
(田中)