『原典黙示録』第67回 講義録
田中大
今回から講義のテーマはアフガニスタンに移る。ペルシア語の方言とみなすことができるダリー語が現在この国の公用語に指定されていることからもわかるように、アフガニスタンはペルシアと同じ言語文化圏に属するため、基本的には前回までの講義で詳しく取り扱ってきたペルシアと地続きの世界として理解することができる。彼の地の政治情勢の混迷は愈々極まりつつあるが、今回は時事的な問題を射程に捉えながらも、これまでと変わらぬ原典的なアプローチによって、アフガニスタンの歴史に光が当てられていった。
古代のアフガニスタンはメディア王国に支配された後、前6世紀にはダレイオス1世によってアケメネス朝ペルシア帝国の支配下に置かれた。アケメネス朝期の古ペルシア語テクストについては前回までの講義の中で参照されたが、今回はそれらに加えて古ペルシア語、エラム語、アッカド語の三言語が併記されているベヒストゥーン碑文の中からアッカド語全文を収録したF. M. Labat(ed.), La version akkadienne de l’inscription trilingue de Darius a Behistunが登場した。
アケメネス朝は前330年にアレクサンドロス大王によって滅ぼされる。この大王の東征について後世の歴史家アッリアノスが著したのが『アレクサンドロス東征記』Ἀλεξάνδρου ἀνάβασιςである――本書については希和対訳本として大牟田章訳註『アレクサンドロス東征記およびインド誌』が参照された――。
前323年にアレクサンドロス大王が病没すると、彼の帝国はその後継者によって三分されたが、そこでアフガニスタンを含む中東一帯の広大な領域を支配したのがセレウコス朝シリアであった。しかしこの王朝はまもなくアフガニスタン南部地域をインドのマウリア朝に奪われる。この王国はアショーカ王の治世において最盛期を迎えるが、この時代に第3回仏典結集が行われ、アフガニスタンに仏教が浸透したと言われる。またアフガニスタン北部も前3世紀半ば頃、セレウコス朝のサトラップであったディオドトスが独立して建国したバクトリア王国の領土となる。バクトリア王国は前130年頃トハラ人などの遊牧民に滅ぼされ、トハラ人の国とされる大夏はその後大月氏に支配された。この大月氏から独立したのがクシャーナ朝である。クシャーナ朝はインド北部地域までを広く支配したが、最大版図を実現したカニシカ王は仏教を推進し、彼の時代には第4回仏典結集が行われた。
クシャーナ朝は3世紀にササン朝ペルシア帝国によって滅ぼされる。ササン朝では、以前のアケメネス朝と異なってゾロアスター教が国教とされた。この時代に入って『アヴェスター』は現存する形の聖典として成立したと考えられている。今回の講義では前回に引き続き、『アヴェスター』「ザムヤードヤシュト」の研究書として、Almut Hintze, Der Zamyād-Yaštが参照された。そこには前回取り上げられた“saošiiaṇt”の語義として“Überwinder”(「勝利者」)との記載があった。先生の洞察によれば、これは「悪に打ち勝つ者」の意であるから、この語によって表される存在はやはり「救世主」という発想の端緒として理解するのがふさわしいということであった。
5世紀頃からササン朝は北方遊牧民エフタルの侵攻を受けるが、突厥と結んでこれを滅ぼし、アフガニスタンの一部を奪還する。しかし651年にはイスラーム勢力の侵攻により、帝国は崩壊する。これ以降、アフガニスタンは現在に至るまでイスラーム勢力の圏域内にあり続けている。
ウマイヤ朝時代にはアフガニスタンの全域がイスラームの支配下に入り、アッバース朝時代になるとその第7代カリフであるマアムーンがその反乱鎮圧の活躍に報いてターヒルにホラーサーンの統治権を与える。821年に彼はターヒル朝を建てるが、この王朝は半世紀でイラン系のサッファール朝に打倒され瓦解する。しかしすぐにこの王朝も同じくイラン系のサーマーン朝に滅ぼされることになる。
サーマーン朝時代にはイスラーム文化と結びついたイラン文化が華々しく咲き誇った。イスラーム史上最高の学者とも言われるイブン・スィーナーやペルシアの大詩人フェルドウスィーはいずれもこの王朝において頭角を現したのであった。イブン・スィーナーの主著『医学典範』القانون في الطبとフェルドウスィーの主著『王の書』شاهنامهはいずれも原典研究所に蔵されているが、今回は後者の原典としてD. K.-Motlagh(ed.), The Shahnameh, 8vols.が参照された。
サーマーン朝軍の主力となっていたのはトルコ人奴隷であったが、その奴隷階級の出身であるアルプ・ティギンが962年に独立し、ガズナ朝を建てた。そして999年、この王朝がサーマーン朝を倒すこととなる。ガズナ朝は多くの富をつぎ込んでその首都に文人を集めたが、先述のフェルドウスィーもその一人であり、彼は30年以上の歳月を費やして書き上げた『王書』をこの王朝の君主スルターン・マフムードに献上したのであった。
ガズナ朝は、同じくトルコ系のセルジューク朝に圧迫されて弱体化し、1186年にイラン系のゴール朝に滅ぼされることになるが、今度はこの王朝がトルコ系のホラズム朝に倒される。ここで世界史に大嵐を巻き起こしたモンゴル帝国が登場する。1231年、ホラズム朝はモンゴル軍に滅ぼされ、アフガニスタンはモンゴル人の支配するところとなった。こうしてイスラーム世界がモンゴルに蹂躙された激動の13世紀を生きたのが、ペルシアを代表する詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーとサアディーである。ルーミーの著した『精神的マスナヴィー』مثنوی معنویは「第二のコーラン」とさえ言われ、イスラーム思想史においても重要な作品であるといえよう。今回は極めて貴重なペルシア語原典と、その訳書R. A. Nicholson(ed., tr. & nn.), The Mathnawi of Jalalud’din Rumiが参照された。またサアディーの代表作『薔薇園』گلستان、『果樹園』بوستانはペルシア語散文作品の中でも最高傑作と名高いが、講義ではこれらのペルシア語原典も登場した。
やがてアフガニスタンは13世紀半ばに成立したイル=ハン国によって支配されるが、これは14世紀半ばには崩壊し、14世紀後半にはサマルカンドから出発したティムールの帝国に呑み込まれてゆく。この時代に登場するのがペルシア文学史上最大級の詩人ハーフェズである。彼の詩は晩年のゲーテに強烈なインスピレーションを与え、この老詩聖に『西東詩集』を書かしめたことでも知られる。ハーフェズの詩集についても、原典研究所所蔵のペルシア語原典が実際に繙かれた。
ティムール帝国は1507年ウズベクの侵入によって崩壊し、アフガニスタンは西部をサファヴィー朝に、東部をムガル朝に支配される形となった。デリー=スルタン朝最後のロディー朝を撃破しムガル帝国を立ち上げたのがバーブルであった。ここで紹介されたのが彼の自伝『バーブル・ナーマ』بابر نامہである。この作品はティムール朝の公用語であったチャガタイ・トルコ語で書かれており、中央アジア古典文学の最高峰の一つをなす。本作品についてはその原典A. S. Beveridge(ed.), The Bábar-Námaと英訳A. S. Beveridge(ed.& tr.), The Bābur-nāma in Englishが参照されたのであった。
サファヴィー朝とムガル朝が支配を確立して以降、17世紀に至るまでアフガニスタンは両王朝に分割された状態が続く。しかし18世紀に入ると、ようやくアフガン人の王家による支配が始まることになるのである。
以上、講義録の形式は古代から近代にいたるまでのアフガニスタンの歴史を概観するものとなったが、実際の講義においては、以上に幾分か補ったような政治史の知識を解説することよりも――原典でのこれまでの全ての講義と同様――、「本物のテクストを実際に見る」ということに遙かに高い比重が置かれていた。どんな知的領域に踏み込むにあたっても、こうした〈体験〉に優る門はない。ひとたび〈体験〉から入門してしまえば、必要な知識など後からいくらでも補うことができる。しかし、ただ知識を得ることから始め、それによって自らの知性を粉飾することに終わるようでは、世界を掴み取るだけの精神の膂力を我がものとすることは決してできないのだ。