この日は『法華経』の一節を取って、そのテクストを具体的に検討する、という実演が行われました。大講義です。
因みに世界史講義に際しては、私は登場した書名や人名などを書き留めることにしています。
それをここに写すことは致しませんが、少しでも臨場感をお伝えできればと思います。この世界史講義の主旨は「実物に触れる」点にあるのです。
(情報を求める者は、与えられる限りでの情報を直ちに得るでしょう。しかし自由な探究は、具体的な現実との直面から初めて可能になるものです。)
まず必要なのは、アクセス可能なテクストを把握することです。今回の参照先には、梵文の写本集のほか、梵漢対照を示したうえ邦語訳を与えたもの、ローマ字による校訂版(ローマ字を用いるのは印刷の事情からです)などが含まれ、またチベット語訳をも参照することとなりました。これらが所狭しと並べられ、広げられます。
狙いとしては、最近の邦語訳(これはもちろん、梵・漢・蔵語における各テクストの校訂に基づきます)を検討するということになります。これもまた所狭しです。
その検討の作業を通じて、各種の邦語訳や解説がそれぞれどの本に基づいて為されているかということが明らかにされ(実のところ、梵文と漢訳・蔵訳とでは明らかに表現が異なっています)、特に一書の訳の問題が指摘されました。
しかし重要なのは、それぞれのテクストが何れも現実にテクストとして読まれてきた、ということです。これを確認するところから、記述論的な読解は始まります。
鋭い方は気付かれたかもしれませんが、「邦語訳」というのは問題含みの観念です。日本ではずっと漢訳のテクストが音読され、ときに読み下され解釈されてきました。それと別に「邦語訳」を立てるとはどういうことなのか。一体どのテクストに基づき「邦語訳」は書かれるべきなのか。つまり「邦語訳」にとっての必然性とは何なのか。
講義の終盤ではまさに、「問題は結局、現代日本語で仏典はいかにして書かれうるかということだ」と言われました。
おそらくテクストの「必然性」は、記述者によって創設され、状況の中で確かめられるほかないものでしょう。そうして全てのテクストは読まれてきた筈です。この現実を捉えるのが記述論的な読解です。
以上のように『法華経』は読まれました。
(宮田)