本日から『方法叙説』第4部の講読に入りました。第4部は有名な「我思う故に我あり」が登場するところで、 デカルトが真理探究に進むまでの過程が描かれた第3部までとは異なり、実際に形而上学的な議論が始まる重要な箇所です。 デカルトの議論が重要性を増すのに併せまして、今回から原典のフランス語講座も一段レベルアップしたものになりました。
そもそも『方法叙説』は庶民向けにフランス語で書かれており、形而上学的にはやや内容の薄い平易な文章で書かれています( それでもフランス語散文史上にのこる名文であることは間違いありません)。デカルトの文章の行間を埋め、より深い理解を得るために、 原典世界史の壮大なバックグラウンドを用いた議論がなされました。
現在原典世界史では仏教を扱っています。仏教学は人間が苦悩から解放されるための実践論として、意識もその対象も実在性を持たないものとみなしており、 これはデカルトが真理探求の結果、両者に実在性を見いだすのと好対照をなしています。この点、とことん踏み込んでいるのは仏教学の方で、 デカルトが以上のように考えたのは西洋的世界観の影響で、プラトン以来のイデアと(実在する)対象の二元論からきた霊肉二元論、そしてそれを( 意識の働きとしての)観念と対象の二元論にすりかえたデカルトの心身二元論においても、実在するものは何かというのが主要な問いになっていたことに起因 すると言います。ただ、この現実世界の対象に実在性を認める西洋哲学の立場が唯物論につながり、西洋においては近代科学が発展したが、 インドにおいては発展しなかったことの分水嶺になっているとの洞察が示されました。デカルトの「我思う故に我あり」と唯識論はアナロジーとみれますが、 それはギリシャ哲学とインド哲学、キリスト教神学と仏教学の対立として、ここに重要な質的な違いがみられるのです。
西洋では実在するものは何かという問いを考えるために、あくまで論証\証明が問題になっていました。 それが西洋哲学をして仏教学の深みに到達せしめなかった制約であったのです。「哲学がなすのは問題の解決ではなく解消であり、 記述によって形而上学的な問いが証明されることはあり得ず、そこにはただ実践のための決断があるだけだ」 という先生のお言葉はデカルトと唯識の問題を理解させるばかりでなく、今後私たちが何を考え何を記述するのかという問いを投げかけてくるものでありました。
(板尾)