中垣太良
前回に引き続き、訳者メログラーニによる序文を読み進めています。さらに今回は、「文献学入門の入門」として、ダンテ『神曲』の翻訳にまつわる問題について解説がなされました。
まず、1972年にハーバード大学出版会から刊行された『神曲』の校訂本が参照されました。これは、ロマンス語学者Charles H. GrandgentがVandelli版に基づき校訂したものを、その校訂の大枠は保存しつつも、Charles S. Singletonが底本をPetrocchi本に差し替え改訂したものです。
地獄篇第1歌の冒頭には、次のようにあります。
Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura,
che la diritta via era smarrita.
次に、山川丙三郎による訳と平川祐弘による訳ーー『神曲』には10余りの邦訳が出ていますが、その中でも人口に膾炙している2つですーーが参照されました。
[山川訳]
われ正路を失ひ、人生の羈旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき
[平川訳]
人生の道の半ばで
正道を踏み外した私が
目をさました時は暗い森の中にいた。
今回問題となるのは、“che la diritta via era smarrita” をどう解釈するかです。“la diritta via era smarrita”(「真っ直ぐな道が見失われていた」)は完全文ですから、“che”を関係代名詞と考えると整合しません。
ここで先生によって、この“che”は接続詞と考え、「なぜなら」と訳すのが妥当だと指摘されましたーー事実ドイツ語版では“denn”と訳されているそうですーー。さらに、校訂本によって“che”直前にカンマがあるものとないものとが競合しており、どれを底本として採用するかで解釈に差異が生まれることが指摘され、受講生から感嘆の声が漏れたところで講義は締めくくられました。
実体としての書物にぶつかっていくことと、データ化された書籍を閲覧すること。載っている情報は同一であっても、得られる体験の深度、重みが全く異なるのです。古今東西の書物が先生の解説によって互いに繋がっていくとき、断片的な知識の総和を超えた歴史の重量を体感します。
次回はルネサンスをテーマに、引き続き文献学の入門講義が行われる予定です。