『原典黙示録』第77回 講義録
田中大
今回最初に取り上げられたのはJ. B. Segal, Edessa: The Blessed Cityであった。エデッサとは現在ではトルコのウルファと呼ばれる都市にあたり、2世紀にキリスト教が伝わってからは東方キリスト教文化の中心の一つとなって、ここにおいてシリア語訳聖書(Peshitta)が成立した――講義では原典研究所所蔵の実物のシリア語訳聖書が登場した――。シリア語は元々古代オリエント世界の公用語であったアラム語の一方言であったが――但し、これは厳密にはシリアの外れに位置したエデッサを中心とする地域の方言であって、必ずしもシリア地方一帯の方言であったわけではない――、現地のキリスト教徒たちによって用いられたために、次第により広い地域で使用されるようになった。
ここでメソポタミアの年代記テクストを集めたA. K. Grayson, Assyrian and Babylonian Chroniclesが繙かれた。参照されたのは、前7世紀のアッシリア王エサルハドンのエジプト遠征の記事であった。アッシリアはこのとき、それに先立って征服を完了していたイスラエル王国のユダヤ人を傭兵として連れて行っており、このときにユダヤ人たちがエジプトから本国に送った手紙はアラム語で書かれていた。これによって当時のユダヤ人たちの使用していた言語がいかなるものであったかを窺い知ることが可能になるのである。またこれに関連して、それに続く前5世紀のアラム語の言語状況の一端を垣間見ることができるG. R. Driver, Aramaic Documents of the Fifth Century B.C. やアラム語・ヘブライ語対訳新約聖書The New Covenant: Aramaic Peshitta Text With a Hebrew Translationも紹介された。
ここで主題となったのは使徒トマスΘωμᾶςの名であった。彼は新約聖書においては主に『ヨハネによる福音書』に登場するが、その中には「双子と呼ばれるトマス」Θωμᾶς ὁ λεγόμενος Δίδυμοςという仕方で紹介されている箇所がいくつかある(ヨハ11:16、20:24、21:2)。この意味をギリシア語本文のみから理解することは難しいが、先生によれば、これはアラム語ないしシリア語の知識から明確になるのである。というのも、アラム語やシリア語において「双子」を意味する語は、それぞれתְּאוֹמָא tʾōmāʾ、ܬܐܡܐ taʾmaʾだからである――シリア語については、C. J. L. Costazのシリア語-仏英亜語辞典が実際に確認された――。すなわちΘωμᾶςとはこの語の音訳であり、その意味をδίδυμοςと付記してあったということが理解できるのである――これは『ヨハネによる福音書』の原典がアラム語であるという説の論拠の一つとなっている――。
ギリシア語を理解しているだけでは、先の一節から先に進むことはできなかった。そこからさらに原初の記述へと遡るためには、アラム語やシリア語を知っていなければならなかった。このように一つの探究は――少なくともそれが問うに値する問いから出発するならば――、決して一つの領域の中に留まり続けることはない。知識は独立して存在し得ないからである。たった一つのことを知るためだけに膨大な労力が必要になるとしても、それを惜しんではならない。亡羊の嘆に暮れて終わるのでは、何も得られはしない。そうして一途に歩み続けた先に、全てを一続きに理解できる境地が存在する。そこへ至ったとき、〈世界〉について語りうる可能性が突如として開かれる。〈生〉はそこに始まる。