イタリア語講座 第3回(11/8)講義録

中垣太良

今回は、訳者メログラーニの序文を速やかに読み進めた後、ルネサンス期における文体、さらに日本と欧米の翻訳文化についてお話がありました。

手始めに、アルベルト・マンゲル 『図書館:愛書家の楽園』に引用されたロバート・バートン『憂鬱症の解剖学』(The Anatomy of Melancholy)の訳文と、デカルト『方法序説』(Discours de la méthode)の原文ーーともに17世紀前半に執筆された作品ですーーとを観察しました。

すると現代の一般的な文章と比べて、一文が非常に長いことがわかります。主節を文末に配置し、そこに至るまでは文意が分明でないよう意図された、”period” (「掉尾文」)と呼ばれる修辞法を用いているためです。ではこの修辞法はどのように生まれたのか? それを知るにはまずルネサンス時代に遡り、当時の言語状況の諸相を知る必要があります。さらに、当時の人文主義者たちが理想とした古典古代の文章にまで遡ることも必然です。

ここで、次回の講義ではルネサンス期の概観を行うこと、さらに次々回の講義ではホメロス『イリアス』の邦訳の比較を端緒として、古代ギリシアの写本の保存・伝承状況も含めた文献学的な解説が加えられることが予告されたのでした。言語学の立場から文体[論]研究を志している私にとっても、非常に心弾む内容です。

続いて、原基晶訳『神曲』の「新訳刊行にあたって」を読みました。氏は既存の邦訳(山川丙三郎訳・平川祐弘訳・寿岳文章訳・河島英昭訳)について、底本の検討を行い、それぞれの訳の長所と短所を指摘しています。ここで先生から、こうした「古典の翻訳の決定版」を競う文化は日本独特のものだと指摘がありました。曰く、「日本では翻訳が学問的な業績になるが、欧米では業績にならない」と。ここでMichel Foucault, Les Mots et les choses(邦題『言葉と物』)の名英訳であるThe Order of Things: An Archaeology of the Human Sciencesが参照されましたが、なんとこれには訳者名が付されていないのです! 日本で『神曲』という単一の作品をめぐってすら10以上の翻訳が刊行され、今なお競うように新訳が登場しているのとは対照的です。

以上のような解説は、ある人には迂遠に感じられるかもしれません。横道に逸れずに、さっさと『君主論』の本文に突入すればいいのではないか? しかし、書物は単独で存在しているわけではないのです。我々はその書物の間テクスト系における位置付けを見定めねばなりません。それには、言語史・宗教史・文化史を中心とした、文字通りその書物にまつわる全事象を理解する必要があります。そうしてやっと、時空の奥行きをその身に纏った<テクスト>が現前します。その<テクスト>に<想像力>を携え格闘してはじめて、自らの生に直結する<読み>が拓け、<原体験>の衝撃が私たちの心身に刻みつけられるのです。

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