『原典黙示録』第78回 講義録
田中大
記述論とは、書かれたものを通じて全世界を相手にする営みであり、テクストを貫通した先に広がる地平を常に見据えている。ゆえに、記述論的な読み手が読んだテクストの内容に左右されるということは一切ない。この前提の下でテクストに記述されている全体験変容を余さず追体験しようと読み手が奮闘するとき、真に〈中立〉的な読解というものが可能になるのである。
とりわけイデオロギー的なテクストというものは、読み手が中立的であることを許そうとしない。そして不幸にもこうしたテクストこそが、近現代の人間の歴史を動かしてきたのである。しかし、記述論の光に照らしてみれば、そのよどんだ水の浅さも瞭然となる。このように積極的に読み手を左右しようとするテクストは、たとえ一部の人間に聖典の如く扱われていたとしても、煎じ詰めれば単なるスローガンに還元できてしまうのである。イデオローグとはそうしたスローガンに陶酔した者たちである。彼らはそれを振りかざし、人々の無知な正義感に付け入ろうと跋扈する。
記述論はこうした言葉を徹底的に排除する。そのためにこの営みは学説の如きまとまった全体を欠くが、同時に厳密性によって凝固することがない。記述論的に展開される言葉のポリフォニーは、読む者の魂の中で次第に大きな波を立てるようになり、やがて一つの激しい海流となって遥かな地平線を乗り越えてゆく。そうして気付けば、彼は新たな地平の静かな波間に立っている。これを繰り返して、言語主体は成熟してゆく。記述論とは、その成熟の一歩先に待ち受ける〈開け〉である。