『原典黙示録』第80回 講義録
田中大
今回の講義は、私が先生に向けて発した問いにはじまる。以下に質問書の内容を掲載する。
『創世記』49:10 “שִׁילֹה”の解釈について
Genesis 49:10 (BHS)
לֹֽא־יָס֥וּר שֵׁ֙בֶט֙ מִֽיהוּדָ֔ה וּמְחֹקֵ֖ק מִבֵּ֣ין רַגְלָ֑יו עַ֚ד כִּֽי־יָבֹ֣א שִׁילֹ֔ה וְל֖וֹ יִקְּהַ֥ת עַמִּֽים׃
(拙訳)王笏はユダから離れず、統治者の杖は彼の足の間から離れない、シロが来て、諸国の民が彼に従順になるまで。
■岩波書店『旧約聖書Ⅰ 創世記』(1997)はשִׁילֹהをそのまま固有名詞「シロ」と解しており、後半部を「それは彼がシロに来る時まで。彼に諸々の民は服従する」と訳している。その注には、「シロは王国成立前のイスラエルの聖地(サム一3他)。但し、「シロが来るときまで」とも訳せる。この場合、シロは統治者(モシェロ)、ソロモン(シェロモ)、王笏と王杖をもつ者(「それを持つ者」)、など種々に解される。死海文書などではシロはメシアの名と解される」とある。
■新共同訳(1987)(「ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」)、新改訳(2017)(「ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う」)、ミルトス『ヘブライ語聖書対訳シリーズ2 創世記Ⅱ』(1991)も同様に、שִׁילֹהをそのまま固有名詞「シロ」と解している。
■これらに対して、D・スチュワート『旧約聖書の釈義』Old Testament Exegesisにおいては、 M. Cross & D. N. Freedman, Early Hebrew Orthographyが参照され、להが元々לוֹ「彼に」と同じ意味で用いられる語であったことが指摘されており、これに加えて、母音記号を補い直せば、שִׁיはשַׁי「貢物」とも解し得、同様にיָבֹ֣א「来る(בּוֹאのパアル未完了・三人称男性単数)」も母音記号を補い直せば、יוּבָא「運ばれる(בּוֹאのホフアル未完了・三人称男性単数)」と解し得るということから、後半部分はלֹה עַד כִּי־ יוּבָא שַׁי「彼に貢物が運ばれるまで」と読まれるべきであるとの主張がなされている。
【原典で目下行われている文献学のTrainingの一環として、以上の解釈についての先生の御見解をお示しいただけましたら幸いでございます。】
これに対して、今回はさしあたって教室にあった書物のみが利用され、導入的な探究が行われた。
先生がまず参照したのは、W. L. Holladay(ed.), A Concise Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testamentであった。これには“unexpl.”、即ち「説明不能」とある。そして先生曰く、これが答えである、と。そしてこの言葉の通り、この地点こそ、探究の目的地であると同時に出発点でもある。この先生の初手の参照によって、私の問いの性質が明らかになったからである。問いそのものの性質に自覚的であってはじめて、われわれはそれをいかに問い進むべきかということがわかるのであり、そこから探究の道筋というものも、自ずと定まってくるのである。
次に旧約聖書の主要な翻訳として、L. C. L. Brenton(ed.), Septuagint with Apocrypha、そして、J. R. Kohlenberger(ed.), The NIV triglot Old Testament本文が確認された。しかし、これらにおいては問題の“שִׁילֹה”は固有名詞として扱われておらず、“שִׁילֹה”はセプトゥアギンタ本文においては“τὰ ἀποκείμενα αὐτῷ”、ウルガータ本文においては“qui mittendus est”、英語本文(福音派による訳)においては“to whom it belongs”と訳されていた。
19世紀のロマン主義的人文学を彩った天才の一人であるセム語学者W・ゲゼニウスによるヘブライ語辞典W. Gesenius, S. P. Tregelles(tr.), Hebrew and Chaldee lexicon to the Old Testament Scriptures――トリゲレスはゲゼニウスに比肩する天才学者であり、翻訳者自身の見解も遠慮なく加筆されている本辞書は二人の天才の魅力的な対決の舞台となっている――は、この語を動詞“שָׁלָה”の派生語とみなし、語義として“tranquillity”、“rest”を提示しており、該当箇所は“until tranquillity shall come”と訳されるべきであるとしている。他方、本辞書を土台として編集されたF. Brown, S. Driver & C. Briggs(eds.), The Brown-Driver-Briggs Hebrew and English Lexicon(BDB)はより学問的に「行儀のよい」記述となっており、いくつかの語義を併記した上で、“whose is the kingdom”、“whose it is”という意味に解するのが正しいのではないかという見解を示しつつも、正確な訳は不明であるとしている。
今回の講義の中で行われたの探究は以上である。この後に続く補足回によって、ここまでの探究の意義は完全に明らかになる。
* * *
補足回 講義録
最初に先生は私の提示した問いを「①この問題はどういう問題か」、「②これをいかに訳すべきか」という二つのレベルの〈問題〉に区分する。ここにおいて、探究の枠組みが愈々定まったのである。
そしてこれに続けて参照されたのは、『バルタザール考』の一節であった。
近年では純粋に語学上の問題と釈義上の問題とが峻別され、とりわけ固有名詞の意味論は、「辞書」ではなく「注解書」で扱われるのが原則のようです。
前回は探究の手始めとして主に「辞書」が渉猟されたが、無論私の提出した問いは語学の問題だけではなく釈義の問題にも関わるものであるから、今回は引き続きいくつかの参照すべき「辞書」を繙きつつも、主要な「注解書」を通覧することに重点が置かれることになる。
それらの作業の前に、原典所蔵のレニングラード写本の本文――ここで繙かれたのは稀覯書A. B. Beck, D. N. Freedman, & J. A. Sanders(eds.), The Leningrad Codex: A Facsimile Editionであった!この写本に書きつけられた手書き文字を実際に目にすれば、誰しも生きた聖なる記述の脈動を体感することだろう――、D・ボンベルグの下で印刷に付されたBombergiana本文、そしてBiblia Hebraica Stuttgartensia本文がそれぞれ確認された。また、英訳聖書については欽定訳聖書とRSV本文が確認されたが、前者においては問題の箇所は “until Shiloh come”と訳されており、後者においては“until he comes to whom it belongs”と訳されていた。
そしてここから残りの主要な「辞書」が参照されていった。死海文書ヘブライ語をも含めた全8巻の古典ヘブライ語大辞典の縮約版D. J. A. Clines,(ed.) The concise dictionary of Classical Hebrewには“שִׁילֹה”の項目はなく、M. Jastrow, Dictionary Of The Targumim, Talmud Bavli, Talmud Yerushalmi And Midrashic Literatureには、創世記49:10の“שִׁילֹה”の意味としては「メシアの名」が示されているのみであった。イエズス会士の古グルジア語研究者によるヘブライ語-ラテン語辞典F. Zorell, Lexicon Hebraicum Veteris Testamentiには、“donec venitat is cuius est”「それ(=王笏に値する者)であるところの彼が来るまで」という該当箇所のラテン語訳が掲載されており、その他には都市名「シロ」とする解釈などが紹介されていた。
次に参照された旧約聖書の固有名詞辞典A. Jones, Jones’ Dictionary of Old Testament Proper Namesの“שִׁילֹה”の項目においてはサマリア五書本文が検討されており、そこでは対応箇所のサマリア語の翻訳は “until the Pacific shall come”であるとの指摘がなされていたものの、『創世記』49:10の“שִׁילֹה”の意味として提示されていたのは都市名「シロ」であった。
旧約聖書ヘブライ語・アラム語辞典L. Koehler, W. Baumgartner& J. J. Stamm(eds.), The Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament, 5vols.(HALOT)は、この語については未だに多くの議論がなされているということを指摘したうえで、当該箇所の研究に関連するビブリオグラフィーについてはC・ヴェスターマンの注解書を参照するように指示している。
ここで実際にC. Westermann & John J. Scullion (tr.), Genesis, 3vols.の第3巻Genesis 37-50が参照された。本書では、“שִׁילֹה”という語は“a ruler”と解するのがよいとしながらも、別様に解釈する可能性を必ずしも排除できないということを述べ、ビブリオグラフィーを示しつつ諸家の解釈を次のように整理している。
1. a ruler: (a)emend text, (b)Akk. loanword šēlu/šīlu, (c)with the versions שֶלֹה(“until he comes to whom it belongs”)
2. accus. of direction: “to Shiloh”
3. שַׁילה(“until tribute is brought to him”)
また、旧約聖書神学辞典R. L. Harris, G. L. Archer & B. K. Waltke, Theological Wordbook of The Old Testamentにおいては以下の四つの解釈が提示されていた。①アッカド語で“counselor”を意味するšēluと対応する語とみなす解釈、②固有名詞「シロ」とする解釈、③ “to whom it belongs”の意味とする解釈、④שַׁיとלהに分解し、“until tribute is brought to him”の意味とする解釈。
以上2冊の注解書はプロテスタントによるものである。ではユダヤ教徒はどのような解釈をしているのであろうか。ここでThe JPS TORAH Commentary, 5vols.の第1巻が参照された。本書は“שִׁילֹה”の意味は全く不明瞭であるとしつつも、שַׁיとלהに分解する解釈や、“that which belongs to him”の意であるとする解釈、都市の名であるとする解釈、メシアの名であるとする解釈を紹介しているが、テクストの欠落の可能性については一切指摘していない。ここに、伝えられたテクストを完全なものであるとみなし、聖典本文に手を加えることを認めないマソラ学の姿勢が見て取れる。
以上で主要な辞書・注解書が一通り参照された。ここまでの探究によって、「①この問題はどういう問題か」、という第一の〈問題〉は解き明かされたのである。先生が冒頭に示した「説明不能」という結論[=探究の端緒]は、膨大な〈間テクスト系〉を通過する探究の体験によって受肉し、私が問うた問いそのものが問い手自身に対してもつ重量を私に把握せしめる形で、私の問いに答えることとなった。この恐ろしくも幸福な探究の体験に精神の焦渇が癒されるとき、「言葉が全てではないが、言葉のなかには人間が生きるために必要な全てがある」という先生の言葉は、私自身にも語り出されうる〈普遍〉の言葉として再び立ち現れるのであった。
次回は「②これをいかに訳すべきか」という第二の〈問題〉について、先生によって最後の探究が実践されるであろう。