講義紹介 2018年4月7日(世界史講義)

ここ数週間の世界史講義では大乗仏教の二本の柱たる中観と唯識について全体像を把握するため、般若経典や『中論』(注釈を含む)、チベットの僧院における修行の過程で用いられる論書、『唯識三十頌』、『解深密経』、『摂大乗論』、『成唯識論』等の文献に触れました。講義のために主宰は毎回数十冊の書物を提げて御自宅と教室とを往復していらっしゃり、玄奘三蔵を思わせるお骨折りに、この場をお借りして御礼申し上げたく存じます。

さて唯識と言えば、意識・末那識・阿頼耶識、熏習、輪廻といった概念を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。これらの概念については、「習はざるを伝」えることを恐れていま説明を加えることは致しませんが、この唯識の思想に強く惹かれた人に三島由紀夫がいます。これについて以下のような指摘がなされました。

「輪廻とはインドにおける伝統的な考え方だが、輪廻の主体が何であるかについては種々の議論があり、唯識思想ではそれが阿頼耶識であるとする。三島が唯識に惹かれたのは、ことによると肉体的な死の後にもある意識が続いてゆくことに一縷の望みを託したのかもしれないが、そもそも唯識は瑜伽行派に属する。彼らは瞑想の中で立ち現れてくる世界を記述したのであって、徹底して覚醒した意識の持ち主である三島が理解できるわけがない。彼は死ぬべきではなく、瞑想すべきだったのだ。」

果たして三島は唯識に救済を求めていたのでしょうか。覚醒した意識も何かに吸い寄せられてゆくことはあり得る気がします。たとえそれが自己の作り出した幻影であったとしても、です。

仏教は学説であると同時に信仰でもあるのですから、目の前で苦しんでいる人を救えるのか否かが現実には問題になってきます。宗教の事は別にしても、現に「どん詰まり」で如何ともし難い状況に陥ることはあるわけで、そのような状況にいる人に届いてこそ思想の言葉と言えるのではないでしょうか。と思う一方、救済「される」ということはあり得るのだろうか、と疑いもします。わたくし自身は、救済は自己救済しかあり得ないと考えていますが、そこまでの強さは求めずとも、つまり救済「される」ことがあり得たとしたも、自分を救済した者に対して静かに穏やかに別れを告げられるようになって始めて救済されたことになると思っています。

人の心の動きに敏感な人がいるもので、そのような人にとって「どん詰まり」の状況を分析しすることはそう難しくなく、そこそこの文学的力量があれば「どん詰まり」の状況を描写することもできるでしょう。それのみか、描写は際限なく続くでしょう。だからといって救われるでしょうか。無限の描写は自己陶酔であり、自家中毒であって、書けば書くほど、或いは語れば語るほどますます辛くなるでしょう。独り語りは断ち切らねばなりません。「そんなに必死に語る必要はない、少し休みなさい」と。これは救済とも言えましょう。

或いはデカルトのような人が現れて、考えるのが下手な人に対し方法的思考を伝授してくれたとすれば、それも救済と言えるかもしれません。人間の憐れさを悲しむこと、神の偉大さを賞め称えること、どちらも切りがありません。深林の暗さと太陽の明るさを詠って止まぬ人に対して、デカルトならこの時は「休んでいないでさっさと歩きなさい」と言うことでしょう。

実に言葉は「業」であり、軽々しく弄べば人を殺し、過度に重大視すれば己を殺すこととなります。我々は如何にすれば言葉が生に結びつくかを探求せねばなりません。言葉は思想を宿し、時を経ても人を捕らえ活殺の権を握ることを思えば、「思考の主体」もまた「輪廻」するのかもしれません。

(三村)

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