『原典黙示録』第81回 講義録
田中大
今回まず登場したのは旧約聖書のコンコーダンスJ. R. Kohlenberger III, J. A. Swanson, Hebrew English Concordance to the Old Testamentであった。これで問題の“שִׁילֹה”を引くと、 “n.pr.loc.?”とあるほかには、『創世記』49:10の訳として“until he comes to whom it belongs”が掲載されているのみであった。
これは前回も参照したRSVと同じ訳であるが、この解釈は即ちשִׁיを関係代名詞と取り、לוֹを前置詞לと三人称男性単数人称接尾辞וֹの組み合わせと取って “to him”と解したということである。しかしそうであるとするならば、この関係代名詞節の中には動詞がない。では何故動詞がないのか。先生曰く、この箇所が詩だからである。
そして重ねて、ヘブライ語詩の肝は交差配列法chiasmusによる対句だということが先生によって指摘された。ここで参照されたのはM. P. O’Connor, Hebrew Verse Structureであった。本書は、“שִׁילֹה”の問題を直接取り扱ってはいないものの、『創世記』49:10全体をヘブライ語詩の構造の観点から分析しており、עַד כִּיを“so long as”と訳している点は注目に値する。
ここで注意せねばならないのは、この『創世記』49節において語られるヤコブの息子たちへの祝福の言葉が予言の詩であるということである。ここでThe JPS Torah Commentaryが改めて参照され、עַד כִּיを“until”と訳すべきであるのは、それが過去についての記述において用いられている場合であって、それが未来についての記述の中に見出される場合には“so that”の意味で解するのが適切であるということが確認された。この後で参照されたJPS Hebrew-English TANAKHでは、該当箇所の訳は“So that tribute shall come to him”となっており、その注には“Shiloh, understood as shai loh “tribute to him”, following Mdrash; cf. Isa. 18.7. Meaning of Heb uncertain; lit. “Until he comes to shiloh.””とあった。
さて、前回に引き続き様々な辞典・注釈書が参照されてきたが、問題の箇所に関して、なぜこれほどまでに多くの議論がなされているのか。この問題を解く鍵は、何とセプトゥアギンタにあった。繙かれたのはフランスで出版されているセプトゥアギンタの訳注書M. Harl & M. Alexandre(dirs.), La Bible d’Alexandrie LXX : Le Pentateuqueであった。本書に掲載されているセプトゥアギンタ本文と仏訳は以下の通りである。
οὐκ ἐκλείψει ἄρχων ἐξ Ιουδα
καὶ ἡγούμενος ἐκ τῶν μηρῶν αὐτοῦ,
ἕως ἂν ἔλθῃ τὰ ἀποκείμενα αὐτῷ,
καὶ αὐτὸς προσδοκία ἐθνῶν.
Il ne manquera pas de chef issu de Juda
ni de guide issu de ses cuisses,
jusqu’à ce que vienne ce qui lui est réservé,
et lui, il est l’attente des nations.
その注においては、次のような指摘がなされていた。“τὰ ἀποκείμενα”は謎の語であり、さまざまに解釈されてきたが、タルグム以来、ユダヤ人は伝統的にメシアの到来の予言と解してきたが、それに対してキリスト教の護教論者たちは別の理解をしていた。例えばユスティノスは該当箇所を“jusqu’à ce que vienne celui pour qui cela est réservé”(「それがその人のためにとって置かれるところの人が来るまで」)と解した。また他にはこの語がキリストとその受難の“témoignage”(「証」)を指すという解釈もなされた。
また、最後の“il est l’attente des nations”(「それは諸民族の期待である」)という部分には、旧約聖書においてこの箇所以外には『箴言』30:17にしか現れない語であるיִקְּהַתを含む。これについては、通常“obéissance”(「服従」)、“à lui obéissance des peuples”(「彼への人々の服従」)などと解されるが、セプトゥアギンタの翻訳者は、 “attendre avec confiance”(「確信をもって待つこと」)と解釈している。“προσδοκία”は“attente”の意である。キリスト教徒は、この箇所にメシア的な意味を読み込む。メシアがやってくるところのnations「諸民族」と自分たちを同一視するのである。
朧気ながら光が兆してきたようであった。ここでより詳細な注が付された分冊版La Bible d’Alexandrie LXX La Septante tome 1: La Genèseが参照された。
該当箇所には以下のような注が記載されていた。この箇所は古代にはユダヤ教徒とキリスト教徒との間の論争の的となり、この箇所のヘブライ語、ギリシア語の意味については数多くの議論がなされてきた。ユスティノスはユダヤ教徒たちとの論争の中で本文をそのまま採用することを非難し、この箇所は“ᾧ ἀπόκειται”即ち“(celui) pour qui cela est réservé”と読まれるべきだと主張しており、リヨンのエイレナイオスもこれと同じ意見であった。そのほか、オリゲネスは、彼の『諸原理について』Περὶ Ἀρχῶνラテン語版第4巻を参照するならば、この箇所を“ce qui est réservé”や“celui pour qui cela a été réservé”と解釈していることが分かる。すなわちこの箇所は、前者であれば「(キリストの)王権」を、後者であれば「キリスト」そのものを示す。またיִקְּהַתに関しては、ユダヤ教徒シノペのアクィラは“σύστημα”即ち“rassenblement”を当てている一方、セプトゥアギンタ本文は“προσδοκία”即ち“espérer”を当てている。
これらを踏まえ、先生は道破する、この箇所の解釈に纏わる議論が混迷を極めているのは、ユダヤ教徒対キリスト教徒の決して退くことのできない論争のためであった、と。この箇所に、ユダヤ教徒はダヴィデのような王の到来の予言を見出し、キリスト教徒はキリスト到来の予言を見出したのである。
実はここまで見てきた辞書・注釈書は全て単なる文法の問題、すなわち語学上の問題しか取り扱っていなかった。このセプトゥアギンタの訳注書においてなされている議論こそが本当の「釈義」なのである。そして私の提出した問題に正確にアプローチするためには、このように「なぜその問題が問題になるのか」というメタ的なレベルで問いを問い直すことが必要であった。
これは単なる生易しい「知的好奇心」の問題ではなかったのである。古代のキリスト教徒は少数派であり、多数派であるユダヤ教徒によって迫害される存在であった。そして多数派であったユダヤ教徒たちも、日増しに勢力を拡大していく強力な異端の登場に恐れを懐いていた。そうした彼らの危機感は、彼らに譲れぬ信仰の一線を強く自覚させることにもなっただろう。一点一画も変えることが許されない聖なる言葉が或る予感を喚起する謎めいた空洞を曝け出すとき、彼らにとって決定的な問題が出来した。いずれ来たるべき王の、遙か遠くに仄見える一点の影に、信仰者の実存の全重量が懸けられたのである。そうしてこの結論が出ることのない問題は、二千年以上に亘る論争を形成することとなった。
ここまでの一連の探究によって私の問いは決着した。その過程で私は聖典の言葉のもつ神の力を全身に受けることとなった。記述に宿る神[々]と出会うこの地点において、運命の必然性は累乗され、しかし生は軽やかになる。ここに〈自由〉の境地がある。