『原典黙示録』第82回(12/11) 講義録

『原典黙示録』第82回 講義録

田中大

今回は受講者に『おんぱろす』所収『現象学的方法としての〈記述〉』の「補遺」が配布され、それを中心とした《講義》が展開された。「補遺」においては以下のように、この〈試論〉の中でなされている〈記述〉の《仕掛け》が明らかにされている。

〈本文〉では、現象学に仮託して「記述的」とし、〈註記〉Ⅰで「記述[論]的」、〈註記〉Ⅱで「記述論的」としたことだけが、〈テクスト〉で《仕掛け》と言える唯一のものです。

この「記述的」/「記述論的」という対立が、認識を問題としたカントやフッサールの哲学における「超越的」transzendent/「超越論的」transzendentalや、存在を問題としたハイデガー哲学における「存在的」ontisch/「存在論的」ontologischという対立と並行関係をなすことは言うまでもないが、しかし彼らの哲学が主題とする概念それ自体さえも記述によってはじめて画定されうるものであるがゆえに、「記述的」/「記述論的」という対立はこれらの対立よりも一段階メタ的な地平に成立する〈枠組み〉となっている。

『現象学的方法としての〈記述〉』とは、こうした〈枠組み〉の成立する場である。そこでは出発点たる「記述的」レベルのテクストとして、現象学という一つの哲学そのものを主題とするテクストが選ばれている。しかし、これは現象学が〈記述論〉に対して特別な地位にあるということを全く意味しない。どのような記述であれ、権利上は〈記述論〉への扉たりうるのだから。これは〈記述論〉生成の場面を読み手が実際に見て取ることができるようにするための「教育的配慮」――これは講義においてその場で辞書や注釈書を紐解いて聞き手が探究の場面を実際に見て取ることができるようにするための「教育的配慮」と同じである――によってさしあたり設定された仮初の出発点である。そしてこの出発点から始まる〈記述〉は、古今東西の取り扱われるべきテクストを過不足なく貫流する。書かれるべきことだけが書かれた〈テクスト〉は、有限の言葉の中に無限を内包する。

この無限は諸学科を隔てる壁を無視して劇的に広がってゆく。知的〈制度〉の一部でしかない「定説」も、人間精神の〈桎梏〉たる「イデオロギー」も、みな吹き飛んでしまう。ひとはこうして新しく切り拓かれた大地に立つことでようやく、他の誰でもない自己自身の精神による探究を始めることができるのである。

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