本日のフランス語講義では、デカルトの神の存在証明に至る観念論的な議論が扱われました。
先の「我思う故に我あり」のあたりまでは自分の認識はどこまで及ぶかという認識論がなされていたのに対し、神の存在証明はより完全なるものの観念をいかに認識するかという観念論になっているのです。確かに言われてみると前者では penser(思惟する)がよく文中に出てきたのに対し、後者では connaitre(認識する)や idée(観念)がよく出てくるようになって、特にje pensaisが je connaisに取って代わられたような印象です。
この後者の議論については先の三村さんの投稿にもあります通り循環性が指摘されています。それはシンプルに言うと「神が存在するならばそのときに限り自分が明晰判明に認識するものは真であり、また自分が明晰判明に認識するものが常に真ならばそのときに限り神は存在する」と還元されるような議論です。このように書いてしまってデカルトの議論の矛盾を指摘するのは容易いですが、デカルトは当代随一の天才であり、このようなレベルのミスをするとは考えがたい気もします。となれば、デカルトはこれを矛盾と知っていつつも他の伝えたいことのためにあえて書いたか、矛盾とは思わず何かが示せたと思ったかということになります。神の存在を証明し、神の存在と善性に依存した哲学を展開する(ポーズを取る)ことは当時のキリスト教的権威に支配された言論状況を考えれば無難だったというのは確かだと思いますし、それがデカルトの思索の末にたどり着いたのがアーラヤ識ではなく神だった(神と呼ぶことにした)理由だったのでしょう。
(以下は全く以て私見ですが)しかし、果たしてこれだけでしょうか?そうだとすれば、デカルトのこれ以降の議論が(循環論という誤謬の上に成り立っているために)意義を失ってしまいます。私にはデカルトがいくら神学徒に弾圧をされないような議論をするためでも論理的に破綻した議論をするとは思えません。仮に表面上は循環論の誤謬があっても、何か論理的に成立するような読みが可能になる補助線をデカルトは隠しているのではないかと私には思えるのです。
(板尾)