本日の探求によって得られた思想的な知見に関しては板尾君が書いてくれましたので、わたくしはデカルトの文章そのものに目を向けたいと思います。
第四部は大変読みづらく、何を言わんとしているのか分からないとすら言える程であるため、評判が芳しくないそうです。著者自身冒頭で「わたくしがここ(=オランダ)で為した最初の思索について読者に語るべきかどうか、わたくしは分からない。それはあまりに形而上学的で、あまりに奇であるため、世間一般の好尚に合わないだろうからである」と遅疑逡巡しており、先生も「デカルトは先を急いでいる。出来ることなら書きたくなかったことなのだ」と指摘されました。それでもわたくしはこの箇所が紛れもない大文章であると感じています。
先を急ぎ、素描的になっているからこそ、一字も増減すべからざる文章になっています。これまでの諄々たる筆致と打って変わって、目標へ向かって最短の道程を選んでおり、寄り道をすることもさらに捷径をとることも許されません。従って、この箇所でデカルトが何を言おうとしているのかを知るためには、ゆっくり丁寧にその文章を辿ってゆくより他なく、ここでわたくしが手短に要約することは出来ないのです。板尾君の投稿が、授業における議論のまとめにはなっても本文の要約になっていないことには必然性があります。ここまで削ぎ落とされた文章は到底祖述不可能で、もしそれを敢えてしようとするならば、我々が独自に『方法叙説』を書くことになるでしょう。
またデカルトは、どの段階でどの概念を議論の中に導き入れるか、計算し尽くしています。且つその概念というのは idée や perfection など、現代フランス語の感覚ではこれといった手応えがなく、ややもすれば読み流してしまいかねません。「仁」「義」「涅槃」「無明」、或いはドイツ語の造語能力を駆使した複合語など、見るからに哲学的な概念の顔をしている言葉とは違います。日常的な言葉で哲学ができるフランス語の、いやフランス語をそういう言語にした人物の偉大さに打たれるばかりです。ここで著者が用いている概念は、本来スコラ哲学などの用語をフランス語に直したもので、例えば「存在している唯一の存在」le seul être qui existât はスコラ哲学で言う ens 「存在者」に相当します。従って、この箇所はフランス語の背後にラテン語が、一つ一つの概念の背後に全思想史が透けて見えるようでないと読めないのであり、そういうところを先生は補って下さっています。
一つ一つの概念に全思想史を背負わせている――これが intertextuality ということでもありますが――このことに気づいて戦慄せざるを得ませんでした。任意のある流派の考え方を選び取り流用するのではなく、自分の使おうとする言葉の全てを受け止めた上で書く。これこそ、それまでの時代を総括しそれからの時代を開く文章たるべき条件であり、我々は今まさにそのような文章を目の当たりにしているのです。
授業が始まって本を開くと、本文のまだ読んでいない箇所が白紙に見えます。(それは下読みをしてきていないからでもありますが)先生の助けを得ながら読んでゆくと、哲学者のペンが紙の上を走ってゆくのがまざまざと見えます。わたくしは今に至るまで一切日本語訳を参照していません。わたくしにとっては一語一語が驚きです。そのような言語体験を求めて、わたくしはここに通い続けているのです。
(三村)