『方法叙説』第四章を扱っている本日のフランス語講座では、先週のブログの内容もふまえまして、デカルトの議論の進め方とそれが循環論かという批判について先生の見解が示されました。
そもそも、例えばキリスト教徒に対して、「あなたは神によって存在している。またあなたがこのようにあることは神の存在の証拠である。」と語りかけることが、字面的に言えば循環してはいるものの、語りかけられた当人にとって自らの信仰を深める契機となる言葉として響きうるように、ある議論の循環性を批判することは簡単ではありますが、その意義は思いの外大きくないかもしれません。重要なのは表面上の論理構成よりもむしろ、言葉が書き手にとっていかなる必然性をもって紡がれたか、そして聞き手にどう響くか、すなわちいかなる追体験を可能にするかということにあると言えるでしょう。そう考えると、『方法叙説』の読者として私たちに求められているのはデカルトのいかなる問題意識が神の議論をなさしめたのかということを考えることになると思います。
先週のブログで、デカルトの観念論という話をしましたが、それは厳密には<観念>論(観念についての論)とすべきで、ここに訂正いたします。デカルトはイデアという言葉を用いて、世界に存在するものの本質というプラトン的なものではなく、人間の頭の中に表れる観念を指示しています。これは「世界と隔絶されたイデア界」対「世界」の対立構造を、「頭の中にある観念」対「世界」という対立構造にすり替えたものであって、デカルトの使う「観念」がスコラ哲学的な文脈から異化されたものであることに注意が必要です。
デカルトの神の議論はまさに、この<観念>を突き詰めた結果必然的に至るところのものだったのです。ここはこれまで何度か引き合いに出した仏教学の唯識論と対照するとわかりやすいかと思います。唯識論では(以下は議論の厳密性をそこなう紹介ではありますが)、実際に事物も観念も空なのになぜそれがあると思っているのかと考えて、そう思わしめるマナ識、アーラヤ識が存在するのだと言われています。デカルトは自分が持つ観念の性質は何かとこれまた観念について突き詰めた結果、自分に(例えば自分がそうであるよりも完全なものについての)観念を持たしめるものとしての神に至っていると言えそうです。デカルトの議論はその中で、まず自分が考えている(方法的懐疑を行っている)ことが問題になり、そして主題は自分が抱く観念になり、その後自分のうちに見いだす観念についてと、ひょっとすれば見落としてしまいそうなうちに移り変わっており、唯識論を補助線としてデカルトを理解することが可能になるのは、デカルトの意識が自分の観念に向いているという認識があるためだと思います。こう考えると、文章に潜む書き手の意識の変化を正確に追いかけ、適切な文脈を意識して読み解いていくことが、単なる循環論と循環論に見えて実は螺旋を上っている議論を読み分けるために読者に求められる態度であるような気がします。
(板尾)