講義紹介 2018年5月21日(フランス語講座)

デカルトの『方法叙説』を読み進めている月曜日のフランス語学講座では引き続き第四部を扱い、神の存在証明および世界の実在性についての議論を読み進めています。
先日のブログで私が唯識論を補助線にデカルトを読み解く方法があるはずだと書いてしまったのですが、先週及び本日の講義ではそれに対する回答の形で(また回答というものを越えるスケールで)新しいデカルトの読みが提示されました。これまではデカルトと唯識論の類似性に主に注目しておりましたが、もちろん両者は異なっていてその肝は一言でいえば、唯識の行者は目をつぶって認識をとことんつきつめているのに対し、デカルトは目を開いて実在的な世界を生きているというところにあります。目を開けて生きているのにその世界の実在性を否定するというのはかなり難しい話で、デカルトの議論は世界の実在性を認める方向に進んでいき、神の存在証明もその文脈の上にあるのです。
我思う故に我ありという認識から神の存在証明に至るステップに潜むデカルトの仕掛けは、前稿でも触れたとおり、<観念>(idée)にあります。三角形の性質がどうというような議論について確実な結論を得ることはできますが、例えば内角の和が180度であるという命題の確実性と三角形の現実世界における実在性は無関係です。ここで、観念の世界においては確実なものとして認識できるのに、現実の世界における実在性の情報が得られないのはなぜか?後者にはいかにすれば迫れるのか?という問いが立ち上がり、ここで登場するのが神というわけなのですが、この問いの前提には、観念の世界と現実の世界との区別があります。(正確性を期すためにコメントを付しますと、観念の「世界」というのはデカルトの本文に現れる表現ではなく、デカルトの意識はこうではないかという仮説的な表現として説明に用いています。)
この区別を自らのものとして先の問いを自ら問えればデカルトの議論に乗ることが出来るのでしょうが、実はデカルトがあるときからこっそり観念という言葉を多用するようになったのは、今述べた意識の転換を読者に共有しようと思ったからなのかもしれません。また、このように書き手の意識の遍歴を読み手に追体験することがテクストの意義であるとすれば、読み手である私たちが読解において注意すべきなのはデカルトの議論そのものよりも、その意識の変化なのでしょう。観念という言葉が多用され始めているという気付きや、目を開けているデカルトは現実世界の問題に向かっているという唯識論の補助線は、ただ文字を追っているだけでは気付かないテクストの奥にあるデカルトの意識に目を向けさせる契機であり、デカルトの意識の変化を注意深く追いかける原典流の記述論的読解により、神の存在証明及びデカルトのテクスト全体はそれが書かれることが必然的なものとして読まれ、追体験されるのです。
(板尾)

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