『原典黙示録』第88回 講義録
田中大
先生曰く、非専門家である大方の日本人にとって重要である大乗経典は、『般若心経』、『金剛般若経』、『浄土三部経』、『法華経』の四つの経典である。今回は仏教文献学の入門として、この中の『浄土三部経』について概説されたが、それは日本における第一期の仏教文献学者たちがその校訂を行ったからであった。
『浄土三部経』は『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の三書から成る浄土宗、浄土真宗の根本経典である。このうち『観無量寿経』はサンスクリット語原典やチベット語訳が未発見であるため偽典である可能性が高いとみられており、記述論的な重要性はさして高くはない。問題となるのは『無量寿経』と『阿弥陀経』である。これらはいずれもサンスクリット語原題がसुखावतीव्यूह(Sukhāvatī-vyūha)であるため、前者は『大スカーヴァティー・ヴューハ』(ないし『大経』)、後者は『小スカーヴァティー・ヴューハ』(ないし『小経』)と呼ばれる。これらのサンスクリット語原典テクストの校訂・出版に貢献したのが、オックスフォード大学にてMax Müllerの指導の下で仏教学研究を行っていた南條文雄、笠原研寿であった。
その成果はオックスフォード大学より出版されたAnecdota Oxoniensia, Aryan seriesに収録されており、今回は『無量寿経』サンスクリット語原典F. Max Müller & Bunyiu Nanjio(ed.), Sukhāvatī-vyūha : description of Sukhāvatī, the land of the blissをはじめとして、Max Müllerが南條と笠原の協力を得て日本のサンスクリット語仏典を集成したF. Max Müller(ed.), Buddhist Texts from Japan、法隆寺に伝わっていた最古の貝葉『般若心経』写本などを含むF. Max Müller & Bunyiu Nanjio(ed.) with an appendix by G. Bühler, The ancient palm-leaves containing the Pragñâ-pâramitâ- Hridaya-Sûtra and the Ushnîsha-vigaya-dhâranî、そして夭逝した笠原研寿によって編集された仏教術語集『ダルマサングラハ』テクストをMax Müllerらが引き継いで編集・出版したK. Kasahara, F. Max Müller & H. Wenzel(ed.) The Dharma-samgrahaが参照された。
続いて登場したのは、H. Inagaki, A tri-lingual glossary of the Sukhāvatīvyūha sūtras: Indexes to the Larger and Smaller Sukhāvatīvyūha sūtraであった。これは『無量寿経』と『阿弥陀経』の梵蔵漢英対訳のグロッサリーである。先生によって指摘されたのは、本書に収録されている『阿弥陀経』のグロッサリーがサンスクリット語を見出しにしているのに対し、『無量寿経』のグロッサリーがチベット語を見出しにしているということである。それはなぜか。『阿弥陀経』はサンスクリット語原文、チベット語訳、鳩摩羅什の漢訳が比較的よく一致するため、サンスクリット語を見出しにすることができるのであるが、『無量寿経』はサンスクリット語原文の欠落が多く、しかもサンスクリット語原文と蔵漢訳が多くの箇所で対応しないため、チベット語を見出しとせざるを得ないからである。こうしたところに、両者のテクスト状況のありようが明確に見て取れる。
聖書には聖書特有の〈文献学的状況〉があるように、仏典には仏典特有の〈文献学的状況〉がある。本講義で行われてきた訓練の主目的の一つはこの〈文献学的状況〉を理解するということであったといってよいだろう。それは、単なる機械的校訂作業を行うための技術知を獲得するということには止まらない、テクスト読解の一般理論を体得するための基礎を提供する実地訓練である。