中垣太良
今回の講義はまず、前回講義録末尾に記した疑問に対する返答から始まった。以下に前回の講読範囲を再掲し、問題の箇所を太字で示す。
[3] E benché io iudichi questa opera indegna della presenzia di quella, tamen confido assai che per sua umanità gli debba essere accetta, considerato come da me non gli possa essere fatto maggiore dono che darle facultà di potere in brevissimo tempo intendere tutto quello che io in tanti anni e con tanti mia disagi e periculi ho conosciuto e inteso. (Inglese版より引用)
この“mia”の正体は何か、というのがわたしの疑問であった。所有形容詞の女性単数形と考えると、前後の名詞の性数に一致していないので奇妙だ。とすれば、所有形容詞ではない何者かであるはずである。
先生曰く、この“mia”は「私にとっては」(“for myself”:Harvey C. Mansfield訳参照)、あるいは「私の身に起こった」(“de ma personne”:プレイヤード全集版仏訳参照)というように、読者の注意を引く間投詞的表現であり、ラテン語でいう「倫理的与格」(Dativus Ethicus)にあたるのではないか、と。前回も指摘されたように、マキャベリはラテン語に堪能であり、イタリア語のなかにラテン語的語法をしばしば滑りこませている。例えばsupellettile「持ち物」やtamen「それでもやはり」といった語彙の借用がそれである。こうした単語レベルでなら簡単に借用できるが、構文レベルとなると容易ではない。ラテン語の「倫理的与格」の機能を、格変化のないイタリア語に反映させようとした結果--たんにマキャベリが筆を滑らせたという可能性も否定できないが--奇妙な“mia”の出現に至ったのではないか、というのが先生の判断であった。
Inglese版も、国定版(Edizione Nationale、Mario Martelli校訂)も、この“mia”についてはみごとに沈黙を保っている。日本語訳では、河島英昭訳(「私が身をもって」とある)に、“mia”のニュアンスを醸しだそうとする努力がうかがえる。
以上、先生からの返答をさらりと書いてきたが、先生はわたしの疑問に答えんがために労力を厭わず、袋いっぱいの辞書・文法書を自ら教室に運び入れてくださったことも記しておかねばならない。わたしはまたも真摯な<対話>の姿勢を学んだ。ありがとうございました。
さて、今回の講読範囲に移る。
[4] La quale opera io non ho ornata né ripiena di clausule ample o di parole ampullose e magnifiche o di qualunque altro lenocinio o ornamento estrinseco con e’ quali molti sogliono le loro cose descrivere e ornare, perché io ho voluto o che veruna cosa la onori o che solamente la varietà della materia e la gravità del subietto la facci grata. (Inglese版より)
まず、前半部(コンマの前まで)である。
“La quale opera”と目的語が文頭に出ているが、これは単なる倒置ではない。英語の関係代名詞“which”の継続用法(非制限用法)のように、“La quale ”が前文全体を受け、二文を接続する“e”(=and)の役割を代替しているのである。これに注意して訳すならば、“La quale opera”は「以上に述べたようなこの著作」といった程度の意味になろう。また、“ho ornata né ripiena”の部分であるが、ripienareなる動詞は存在せず、これは形容詞ripieno「いっぱいの」から派生させたマキャベリによる造語であることが指摘された。
以上より、前半部は「私は(以上に述べたような)この著作を、冗漫な掉尾文や、大袈裟で壮大な言葉や、その他いかなる甘言やうわべだけの装飾で飾り立てることも、満たすこともしませんでした--多くの人々は、そういったものによって自らの文章を飾り、記述するのですが」(拙訳)といった意味になる。
次に、後半部について。並列されたche節のうち、前半の“veruna cosa”をどう解釈するかが問題である。
perché io ho voluto o che veruna cosa la onori o che solamente la varietà della materia e la gravità del subietto la facci grata.
Inglese版の注釈では、verunaは“nessuna”「どんな(〜もない)」と同義に解している。これに対し、河島英昭訳(岩波文庫)は「ここではむしろ原義へ戻っておきたい」と注釈を加えた上で、「まさに一つの事柄」と訳している。しかし、肝心の「原義」についての説明がない。
ここで『伊和中辞典』が参照された。本書には次のような語義が掲載されているが、やはり「原義」についての言及はない。
veruno 形 ⦅文⦆1 ⦅否定詞と共に⦆一つ[一人]もない, 全然, 何も, 少しも: Non fa male 〜. それは全く害にならない|Non ho visto 〜. 私は誰ひとり見なかった 2 ⦅稀⦆幾つかの、何らかの
さらに、伊伊辞典Il Nuovo Zingarelli: Vocabolario della lingua Italianaが繙かれた。本書を引くと、次のようにある。
Verùno /ve’runo/ [lat. vēre ūnu(m) ‘veramente uno’] agg. e pron. indef.
1 lett. Alcuno, nessuno(spec. preceduto da negazione): é stato accusato senza colpa veruna; –gli ha porto aiuto.
2 raro Qualche, qualcuno: richiesta di veruna cosa.
なんとverunoはラテン語vēru(m) ūnu(m)「まさしく一つの」(“veramente uno”)に由来しており、それがいつの間にか「どんな(〜もない)」(“nessuno”)へと意味が逆転してしまったということである。ラテン語に親しんだマキャベリからすれば、原義“veramente uno”の意として用いていてもなんら不思議ではない。思えば、“nessuno”の意で解そうとするにはそもそも前後に否定詞が存在しなかった。
以上より、後半部は「なぜなら、私はこの著作がまさしく一つのことがらによって栄誉を授かり、そしてただ素材の多様性と題材の重要性とによってのみ好まれることを望んでいるからです」(拙訳)というような意味になる。
今回の講義は、奇しくもマキャベリのラテン語的構文の話から始まり、マキャベリのラテン語的語法の話に終わった。こうした文体は現代の読者をしばしばぎょっとさせ、たじろがせる。しかし、マキャベリの文体が、彼自身の人生とイタリア・ルネサンス末期の時代の空気とを含みこんでいることに気づき、彼の<語り>に五感を集中させることができれば、だんだんとその文体のリズムが体になじんでくる。やがて文体のリズムと自らの呼吸がぴったりと合うときが来る。それこそが、<テクスト>をわかるという瞬間である。