中垣太良
第90回『原典黙示録』では『法華経』をめぐる大講義が行われたが、今回はマキャベリの講読に入る前に、その補足説明がなされた。
まず、インド最古の文学たるヴェーダ文献について。ヴェーダ文献の本体部分(「サンヒター」)には、神々への賛歌を主に集めた『リグ・ヴェーダ』、祭祀に当たっての準備・祭祀における所作の規定を含んだ『ヤジュル・ヴェーダ』、祭祀で朗誦される賛歌の旋律を集めた『サーマ・ヴェーダ』、さまざまな呪法を集めた『アタルヴァ・ヴェーダ』の4つがある。講義では『リグ・ヴェーダ』のマックス・ミュラー校訂本および、Vrajabihārī Caube校訂本Āśvalāyana-saṃhitā of the Ṛgveda : with padapāṭha, detailed introduction and two indicesが参照された。これら「サンヒター」はヴェーダ語で書かれ、口承された。正確な本文伝承のため、11もの朗誦形式が定められており、全形式で『リグ・ヴェーダ』を暗誦できるようになるには12年もの歳月を要したと言われる。
これら「サンヒター」に対する散文の注釈文献群として、第一に「ブラーフマナ」ーーこれは祭祀で唱えられるマントラの各語句を解釈したアルタバーダartha‐vāda(釈義)と、祭式の規則を述べたヴィディvidhi(儀軌)とからなるーーが、第二に人里離れた場所で暗誦される「アーラニヤカ」が、そして最後に、“tat tvam asi”(「汝がそれである」)という格言に象徴されるような独自の哲学体系をなす「ウパニシャッド」と呼ばれる文献群がある。「ウパニシャッド」文献は、思弁的な要素が強いという点でそれまでの注釈文献群と区別され、バラモン教の祭式至上主義に対する内部からの改革の動きの現れと解される。講義では、 最初期(仏教出現以前)の重要な「ウパニシャッド」文献に注解と訳を付したPatrick Olivelle, The Early Upaniṣads: Annotated Text and Translationおよび、全「ウパニシャッド」文献の梵英対訳本112 Upaniṣads(K.L. Joshi・O.N. Bimali・Bindiya Trivediら編)が紹介された。
さらに、注釈文献群とは別に、「ヴェーダンガ」と呼ばれるヴェーダの補助文献が存在する。祭式規則をまとめた「カルパ」、朗誦にあたり正確な発音を期すための音声学書「シクシャー」、暦を定めるための天文学の知識を記した「ジオーティシャ」、韻律学書「チャンダス」、語彙に語源学的説明を行った「ニルクタ」、そして文法学書の「ヴィヤーカラナ」の6種類がある。大文法学者パーニニの文典ーー彼は、最小の言語単位に対して種々の規則(「スートラ」)を適用することで語や文が生成されるという、現代のプログラミングにも通じる発想で文法規則を記述したーーは、「ヴィヤーカラナ」の中で最も重要である。講義では、Otto von BöhtlingkーーRudolf Rothとともに、20年以上心血を注いで編んだ梵語辞典の金字塔Sanskrit-Wörterbuch(全7巻)で有名であるーーの、Panini’s Grammatik(パーニニ文典の独訳および注釈)が紹介された。
さて、「ウパニシャッド」に見られるようなバラモン教の自己改革の流れとほぼ同時に現れたのが、ブッダの説く仏教であった。ここではブッダの生涯についての記述は割愛する。ブッダ入滅(前5世紀初頭か前4世紀初頭と言われる)のち、弟子たちは出家者集団(サンガ)の結束を強めるために「結集」と呼ばれる集会を開く。第一回「結集」は十大弟子の一人マハーカッサパ(摩訶迦葉)によって開かれ、ブッダの教えである「経」(スートラ)と教団の約束事である「律」(ヴィナヤ)とが整備された。第二回「結集」では、「律」に違反すると考えられる十の行為(例えば治療目的で飲酒をすること、信者から布施として金銭を受け取ること、等)について審議が行われ、それらは正しくないことだと判定された。この判定を不服とした多くの比丘たちはサンガを離脱し、新たな部派を創った。これを、保守・伝統派の既存教団「上座部」(テーラヴァーダ)と、改革派の新教団「大衆部」(マハーサンギカ)との「根本分裂」と呼ぶ。以後数百年、仏教教団は分裂を繰り返し、さまざまな部派を形成する。その間、各教団は仏説の研究に励み、その研究成果ーーこれを「論」と呼ぶーーを基盤として悟りを得るための修行に勤しんだ。ゆえに、この時期の仏教を「アビダルマ仏教」(अभिधर्म(Abhidharma)<अभि「〜に対して」+धर्म「仏法」)と呼ぶ。
こうした時代を経て、既存の諸部派への批判の動き、いわゆる「大乗仏教運動」が前1世紀ごろに起こり、インド全域に広がる。講義では、大乗仏伝『マハーヴァストゥ』(『大事』)および『ラリタヴィスタラ』(『普曜経』)ーーどちらもブッダの人生を幻想的に脚色しながら語っているテクストであるーーが取り上げられた。ともに散文と韻文(偈文と呼ばれる)が交互に配され、韻文で述べた内容を、散文で噛み砕いて説明するという構成になっている。偈文においては韻律に適合させるために例外的な語形が頻発し、一般の読者にとっては読み解き難いため、散文で内容的補足を行う必要があるのである。ここで、Emile Senart, Le Mahāvastu(15年がかりで完成した『マハーヴァストゥ』の最初の校訂本。今なお有力な研究材料とされる)およびSalomon Lefmann, Lalita Vistara(『ラリタヴィスタラ』の最初の独訳・校訂本)が繙かれた。Franklin Edgertonはこうした先人の研究成果を踏まえつつ、仏典の偈文に見られる特殊なサンスクリットを「仏教混淆サンスクリット」と称し、その文法書Buddhist Hybrid Sanskrit Grammarや辞書Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionaryを編んだのであった。
こうした大乗仏典に対し、スリランカ・ミャンマー・タイ・カンボジアなど南伝の上座部仏典ーー例えば『ダンマパダ』(講義では、John Ross Carter ・Mahinda Palihawadanaによる英訳、The Dhammapadaが参照された)や『スッタニパータ』ーーは主にパーリ語で記されている。
以上、インド(やその周辺地域)の宗教・言語状況をめぐる補足講義が終わると、マキャベリの講読に入った。
今回の講読範囲は以下である(Inglese版から引用)。
[5] Né voglio sia imputata prosunzione se uno uomo di basso e infimo stato ardisce discorrere e regolare e’ governi de’ principi; perché cosí come coloro che disegnano e’ paesi si pongono bassi nel piano a considerare la natura de’ monti e de’ luoghi alti, e per considerare quella de’ luoghi bassi si pongono alto sopr’a’ monti, similmente a conoscere bene la natura de’ populi bisogna essere principe e a conoscere bene quella de’ principi conviene essere populare.
[5]また、一人の卑しく身分の低い男が、君主の統治を厚かましくも検討し規制しているとしても、そのことを思い上がりだと勘繰られたくはございません。なんとなれば、風景を描く者たちが、山々や高地の特性を観察するために平地に低く身を置き、そして低地の特性を観察するために山上に高く身を置くように、同様にして人民の特性をよく知るためには君主になることが必要であり、君主の特性をよく知るためには人民の一人になることが必要だからです。(拙訳)
意味を取るだけならそこまで問題はないが、いくつか注意すべき点が指摘された。
まず、“Né voglio sia imputata prosunzione se〜”の部分である。’sia imputata’はimputareの接続法3人称現在受動態である。ここで注を参照すると、’considerata(非難を込めて)’とある。つまり「O1がO2だと勘繰られる(みなされる)」というような意味であるようだ(O=目的語)。O2は’prosunzione’(自惚れ、思い上がり)であろう。では、O1は? 先生曰く、従属節のse節全体がそれに当たるのだという。こうした条件節/譲歩節を目的語に取る用法は現代イタリア人にとっても馴染みが薄いようで、メログラーニの現代イタリア語訳では当該部分は“Né voglio sia considerata prosunzione il fatto che un uomo~”と、名詞句に書き換えられている。
続いて、“come coloro che disegnano e’ paesi si pongono bassi nel piano a considerare la natura de’ monti e de’ luoghi alti, e per considerare quella de’ luoghi bassi si pongono alto sopr’a’ monti”であるが、ここでは品質形容詞”bassi”と”alto”が副詞として転化されていることが指摘された。
今回の範囲で、マキャベリは風景画家の卓抜な比喩を用いているが、これはレオナルド・ダ・ヴィンチと親交があった彼らしく、かつ遠近法の技法が花ひらいたルネサンス期の香りが感じ取れる表現といえよう。
さて、Inglese版の注釈には、文法解釈上重要な指摘をしているもの(第10回の「対格+不定法」や、第15回の「関係代名詞の継続用法」など)があるいっぽう、辞書を引きさえすればわかることをわざわざ書いている場合もある。これは、「注釈とはいかなるものか」という問題意識を持たないがゆえに起こる「むら」である。先生曰く、「注釈とはトートロジーであってはならない」と。記号論的置換をつけ加えただけの注釈は、無意味であるばかりか、読者をその場に止まらせるだけである。先生はさらに続ける。「想像力の余地を残す注釈でなければならない」と。
思えば『バルタザール考』を初めて読んだとき、わからない内容もあったが、わくわくしながら読み進め、読後にはふしぎな高揚感があった。そして二度、三度と読んでいるけれど、そのたびに意味の余白が作用し、「あれはこういうことではないか」と考えているうちに、精神を駆り立てるエネルギーが生じるのを感じる。<注釈>とはそのようにあるべきものである。
かくいうわたしも講義録という形で<注釈>を行っているわけであり、背筋を伸ばさずにはいられない。書くことによって精神を言葉に定着させる営みが、読者の精神へ浸透する営みへと昇華するには、この1年が勝負だと感じている。