講義紹介 2018年6月9日・16日(世界史講義)

ようやく日本思想史そのものが扱われるようになったことは前回の投稿で述べたとおりですが、今回は儒教に照準を合わせ、日本思想史における儒教の位置づけを考察しました。一つ注意しておくべきなのは、儒教も仏教も我が国に入ってきたのがほぼ同じ時期であるということです。儒仏といえば水と油のように考えがちですが、伝来の同時性にも目を向けねばなりません。もっとも、仏教は中国において刻々と訳経が行われるのと平行して伝来したのに対し、儒教は完成後数百年を経てひとまとまりの体系として持ち込まれたという違いはあります。

 

日本思想史上では江戸時代に入るまで儒教の存在感が希薄であることは否定できません。思想の大動脈は仏教でありましたが、日本仏教は宗派に分かれているために、全体像を把握することに困難があります。仏教研究は主に各宗派が宗学として行っており、仏教思想全体を相手にする視座を設定するのは思った以上に難しいのです。また、一つのテクストを聖典とする一神教と異なり、無数の経典から各宗派がテクストを選び取って聖典とする点も、仏教の特殊なところです。

 

これまでは主に日本と仏教との関わりを考察してきましたが、ここでもう一度インドに戻り、インド哲学の源たるウパニシャッドについての概説も行われました。ウパニシャッドの原文・研究書・翻訳・シャンカラを始めとする注釈を渉猟しつつ、「汝はそれである」というフレーズ――これは梵我一如なることを道破したマハーヴァーキヤ(大文章)として周く知られていますが、この文は「汝ガソレデアル」と解すべきであると断ぜられました。わたくしはインド哲学研究に関し意見を述べられるような見識も立場もありませんが、「汝ガソレデアル」という言葉を聞くと、恰も身が古代のインドに在って、ウッダーラカ・アールニ仙にズバリと指さされたかのような感を覚えます。

 

これは翻訳の問題で、少し考えれば思いつくことだと思われるかもしれません。しかしながら、言葉が立ち上がる瞬間に居合わせることこそが大事なのであって、今回の授業は思い出とも教訓ともなって各人の心に刻みこまれたことと思います。そして今度は我々の番です。個人的なことを言えば、わたくしは感動するほど反応が薄くなるのですが、感動を覚えるや否や、どうすればこのような感動を生むことができるのか、どうすれば再現できるのかを直ちに考え始めるために、そうなるのです。哲学は驚きから始まりますが、驚きは一瞬です。その一瞬を過ぎれば、もはや止まることはできなくなるのです。

 

(三村)

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