講義紹介 2018年6月11日・18日(フランス語講座)

『方法叙説』第四章も終わりに近づきましたが、ここへ来てデカルトの文は異様に難しくなってきました。この「難しさ」には二つの内実があります。一つは従属節が幾重にも重なる、語学的な難しさです。今まで読んできた中にもここまで強烈なものはありませんでした。そして二つ目こそが本質的なのですが、先生の言葉を借りれば「事柄の難しさが文章の晦渋さに表れている」という性質の難しさです。

 

いつの間にか idéeという語を使い始めたところにデカルトのトリックがあることは板尾君が指摘した通りですが、 idée一本槍で議論を進めるのに限界が来たのではないかという印象をわたくしは抱きます。『方法叙説』の文体で、どんなにわかりやすく書こうとしてもこれが限界という、デカルトの苦悶を見るようです。議論がこのような事態になって程なく第四章が終わるのは何とも示唆的です。これから先はどうしても『省察』を参照する必要があります。

 

それにしても「事柄の難しさが文章の晦渋さに表れている」とは何と単純なことでしょう。言い換えれば、簡単なことは簡単に、難しいことは難しく書いているということであって、読者としてはこれほど安心できる文体はありません。いかなるポーズも取っていない文体であって、たとえ著者の所説に異議があったとしても、この著者は絶対に嘘偽りやごまかしを為すことはないという信頼感をもって読むことが出来ます。デカルトの倫理観の貫徹した文体であると言えますが、如何にすればこのような文体が獲得できるのでしょうか。

 

一つの鍵は、彼が生活者であったことに求められましょう。生活者とは日常への埋没に安らぎを求める者の謂ではありません。正確には「生き抜こうとする者」と言った方がよいかもしれません。生き抜くためには行動に準則を設ける必要がありますが、『方法叙説』では行動における論理性が言葉における論理性とぴたりと重なっているように見えます。この論理は形式論理とは違う論理なのですが、倫理と論理との関係は、今後徹底して考察せねばなりません。

 

しかし『方法叙説』のほうは前述の通り間もなく第四章が終わり、以後は科学論へ移行することになります。これも一つの問題、即ちデカルトの形而上学がなぜ科学に接続するのか、という問題です。デカルトの所説は畢竟形而上学に過ぎなかったとする見方もある由ですが、近代科学が誕生したという事実そのものがデカルトの勝利を示しています。心の秩序を探求したインド哲学とことなり、西洋は物の秩序の探求へ向かったわけですが、上述の問題はわたくしも非常に興味深く感じており、今後の読解によりさらなる新世界が開かれることを心待ちにしております。

 

(三村)

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