講義紹介 2018年6月25日(フランス語講座)

月曜日のフランス語講座では引き続き『方法叙説』第四章の講読を進めています。この部分の難解さについては先日の三村さんの投稿にある通りで、ここの難しさはすなわち内容の難しさによるものであり、デカルトが私達読者を騙すようなことはせずに、真摯な態度で記述した結果だと考えます。この箇所は込み入った内容のために多くの学者がこの箇所は循環であるのかないのかと問題視しているところでありますが、そのような反論があり得ることはデカルトも承知の上で、文体上必要十分の記述をしているのだと思うとすれば、私達はいかなる態度でこの箇所に向き合うべきなのでしょうか?本日の講義はこの問いに対する答えを明らかにし、デカルトの言うことを急に視界が開けたように理解できるようにするものでした。
結論から言えば、これはデカルトの原体験の告白であると先生は言います。すなわち神がいることを論証しているのではなく、この世界と自分はどういう関係にあるのか、頭で考える観念の世界と実在の世界はどうつながっているのかという問いを抱えていたデカルトがあるとき、はっと「何者かがこの世界を作っていて、私をその中にあらしめており、しかもその何者かは善意で動いている」ことを確信し、そのものを(作業仮説的に認めて)神と呼べば、観念と実在のものの対応を不安に感じることもなく、真理の探究に向かえると思い至った、その信念の告白であると読もうということです。これはすなわちデカルトのここでの記述をそのままに受け容れ、それによって何が語られうるかを追体験しようと言う立場であり、この『方法叙説』をデカルトの思索を追体験するためのテクストとして読むという過去のブログでもしばしば述べた態度であります。
そもそもこの本のタイトルは”DISCOURS DE LA MÉTHODE pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences”「(彼の)理性をよく導き、諸科学における真理を探究するための方法叙説」でありますが、すなわちこれは、理性をより高いレベルに引き上げて、本当に真理だと言えるものを見つけるための思考方法の記述であるというわけで、これは決して「デカルトの哲学の体系」ではありません。完成された哲学の論理的な構造を記述しているのではなくて、デカルトが彼が現にそうするようにものを考えられるようになるためにどういう道をたどったかの記述であるのですから、このテクストの記述の中で完全にすべてが論証されることを期待するのは筋違いだと私には思えます。重要なのはデカルトのものを見る目と、論理の運び方のレベルの変化を追体験して追いかけることなのです。(ここでデカルトは『方法叙説』は自分の場合(の理性の導き方)を紹介するだけで、読者に強制するつもりはないと言っています。これがタイトルで「彼の理性」という風に三人称で書いている所以ではないかと私は考えています。つまり、万人が従うべきものとはいわないが、私にしか当てはまらないわけでもないという態度が表れている気がします。)
そう考えれば、いわゆる神の存在証明における循環の問題も、果たして私が正しいと思うことは夢に見ている幻ではないかということが不安になるが、神が善意によって動いているのだと確信することで、自分は神によって作られた世界にある真理を見つければよいのだという意識に至るその変遷を追いかける態度の前では解消されています。デカルトにとって神の存在は悩む中で確信されたことであって、その確信は論理的に一貫していることは確かめられるべきではあるが、それは論証されるべきものではないのでしょう。(この点を理解するのは実は自然科学者にとっては易しい気がします。物理学などは作業仮説だらけですが、一旦それが腑に落ちると世界の見え方が一変します。)ある時強烈に確信したことを正当化はしても論証はしないという態度は『方法叙説』の文体ではむしろ自然なのかもしれません。
(板尾)

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