講義紹介 2018年6月23日(世界史講義)

しばらく授業に行くことが叶わなかったので、久しぶりに行って気付いたことがある。原典研究所での授業は二度始まるのだ。それは先ず先生が大量のテクストを教室に運び込むことに始まり、また受講者である我々を記述論的読解へ導くことに始まるのである。さらに、このいずれもがそれに先立つ、文字通り人生をかけた準備の上に成り立つのであって、このことによってはじめて授業は我々の生に渡るものになっている。我々の為に、と思うのはおこがましい気もするがその前史を思うとき、殆ど奇跡のような心地がする。

「人を記述論的読解へ導く」というのがここでの最大の課題であるとすれば、その「導入」には既に、単なる「手近なところから始める」という以上の意味が、ことによると我々自身に一つの決断を迫る提示が含まれているだろう。上に挙げた「二つの始まり」のうち第二の始まり、即ち「記述論的読解への導入」は、第一の始まりを理解するためのものである。今回初めに取り出されたのは今年出版された三冊の本である。一応挙げると、森和也『神道・儒教・仏教』、小島毅『天皇と儒教思想:伝統はいかに創られたのか』、安本美典『『古事記』『日本書紀』の最大未解決問題を解く:奈良時代語を復元する』(書誌略)である。それぞれの主旨を紹介した後で先生はこう問う。「この三冊は全く関心が異なるもので、専門家が読むとすればおそらくどれか一冊を読み、他の二冊は読まないということになるだろう。さて我々はこれをどう読もうか?」――こうして原典研究所での授業は始まる。

ここで求められているのは勿論、三冊を精読することではないし、またしばしば人文学的な「教養」がそう考えられているような、批判的「解体」の手つきを学ぶことでもない(確かにそうした「教養」は、どんなテクストにも挑んでいくことができるだろう。その後に残る廃墟でどう生きていくかということを、しかしこの「教養」は知らない)。一見「脱構築」的な態度にも似た記述論の手続きは、実のところより積極的なものを持っている。その違いはおそらく、脱構築が「我々」なるものを終始問うのに対して、記述論は寧ろ「我々」を持するという点にある。どこに我々を持するかと言えば、それは恣意的な決定と言われるかもしれない。けれども我々というものは探究や問いに先立って確かに与えられているのであって、それに必然性を与え返すための探究、我々自身を決断するための探究は可能なのである。

結論から言うと、この三冊(および偶然この三冊が代表することになった様々な文章)を我々が一貫して「読む」ために参照すべきは、国学の探究である。国学とはまさに固有の日本語を探究するものであって、その取り組み方は上記三冊を捉え返すための視座を与えるものである。勿論「固有の日本語」といった概念は素朴さを疑わせるものではあろう。だが注意すべきは、国学がそもそも言語学的な探究として為されたということであって、その限りこの概念はいわば統制的理念として、探求を導くものであり得る。実際、何らか「日本語」というものは与えられているのだ。そしてそれが現実には絶えず遷ろう動態として考えられるべきものだとしても、同時にそれが歴史のうちで(ということは文字において)次第に自らの「本来のあり方」を隠してきたということも事実であり、それに向かって遡源するということは可能である。その探究の触りを実際に『古事記伝』に確認し、また橋本進吉による国学の「発見」などを授業では確認したのだった。

国学の探究が範たり得るというのは、何かそれが明るみに出すべき「純粋な日本語」といったものを我々が墨守せねばならない、ということを意味するのではないだろう。授業の最後に先生の言われたことは我々に熟考を促す。曰く、「国学は言語学である、それは地下の営みである、これが地表に出たときイデオロギーになるのだ」と。然りとすれば我々にとって問題となるのは、どのようにしてイデオロギーから自由でありつつ、地表に生きるのかということである。

今回の授業で三冊の新刊から導入され、国学が取り上げられることになったのは、なにも国学の研究を我々の生きる道とせねばならない、といったことを意味するのではない。神道や儒教や仏教、あるいは天皇といったものに対して国学で以て立ち向かえということでもない。国学は寧ろ、いわば自由でありつつ、我々自身の必然性を(この場合であれば我々自身の言葉の必然性を)獲得するための範たり得る営みであった。それは自ら自身の自由というものの可能性を示す営みであった。こうした「可能性」が示されることは重要である。何故なら地上の生はおそらく、他人に対して現れるという条件を免れない以上何ほどかイデオロギー的なものに巻き込まれざるを得ないのだが、それでも我々は探究において自由であり得、かつそうした自由に開かれたものとして生を送ることができるからである。

もはや明らかなことだが、記述論的読解とはまさにそうした自由の可能性を示すものなのだった。

(宮田)

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