『原典黙示録』第93回(3/5) 講義録

『原典黙示録』第93回 講義録

田中大

今回はロシア[語]学/スラヴ[語]学入門である。ロシア語は、スラヴ祖語から分岐して成立した古ロシア語から発展したとされる。この系統の言語の中で最古の文語が古代教会スラヴ語である。原典研究所にはその原典が一通り揃っているが、主なものとしては最古の古代教会スラヴ語文献のひとつである11世紀の古代教会スラヴ語の四福音書 Codex Zographensisを19世紀のクロアチア人スラヴ語研究者Vatroslav Jagićが校訂・編集したV. Jagić(ed.), Quattuor evangeliorum Codex glagoliticus olim Zographensis nunc Petropolitanusや、比較的近年に発見された古代教会スラヴ語のテクストを集成したI. C. Tarnanidis(ed.), The Slavonic Manuscripts Discovered in 1975 at St. Catherine’s Monastery on Mount Sinaiなどがある。今回の講義では古代教会スラヴ語の包括的な文法書としてP. Diels, Altkirchenslavische Grammatik(2vols.)のほか、К. А. Войлова, Старославянский языкや、より簡略なものとしてH. G. Lunt, Old Church Slavonic Grammarと、W. R. Schmalstieg, An Introduction to Old Church Slavicが、また日本語で書かれた文法書として木村彰一『古代教会スラブ語入門』が紹介された。辞書としてはР. М. Цейтлин, Р. Вечерки & Э. Благовой(eds.), Старославянский словарь (по рукописям X–XI веков)が登場し、さらに加えてスラヴ百科事典J. S. Roucek , Slavonic Encyclopedia(4vols.)や、スラヴ語研究に必須の書物として、印欧祖語にまで遡るスラヴ語語彙の語源辞典R. Derksen, Etymological Dictionary of the Slavic Inherited Lexiconが紹介された。

ここで、本書を用いたアナログ検索が実演された。ロシア語で「都市」を意味する語は、град(例えば「レニングラード」Ленинград)、город(例えば「ノヴゴロド」Но́вгород)の二つある。これら二語は語形も近いため、同じ語源をもっているであろうということは推測できるが、具体的にはどのような関係にあるのだろうか。この語源辞典は見出し語にスラヴ祖語の語根を掲げているが、その*gȏrdъの項目を見れば、意味としてfortification, townとあり、さらに古代教会スラヴ語のgradъ “wall, town, city, garden、ロシア語のgórod “town, cityのほか、印欧祖語の*gʰordʰ-o-、サンスクリット語のgr̥há- “house, residence、ゴート語のgards “house など、対応する印欧語族の諸言語の単語が併記されている。これによって、градが古代教会スラヴ語に由来するより古い形であり、городという形はそれがロシア語に分岐して以後に現れたより新しい形であることが一目瞭然に理解できたのであった。このような音韻変化は、力点(アクセント)の変化によるものであるが、その歴史的変化について詳細に論じている研究書としては C. Y. Bethin, Slavic Prosody: Language Change and Phonological Theoryがある。

この古代教会スラヴ語から古ロシア語が発展するのであるが、12世紀に編纂された『原初年代記』Повѣсть времяньныхъ лѣтъはこの言語で書かれた最重要文献と言っていいだろう。これはロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人ら東スラヴ人のルーツを探るための貴重な史料であり、先生曰く「ロシア人にとっての『古事記』」である。今回はその現代ロシア語訳Повесть временных летのほか、邦訳としては現代ロシア語版を翻訳したВ ・І・レーベデフ(編)、 除村吉太郎(訳)『ロシヤ年代記』に加え、原典からの翻訳である国本哲男、中条直樹、山口巌(訳)『ロシア原初年代記』が紹介された。そして最後にはもう一つの最重要文献として古ロシア語版福音書Святое Евангелиеが登場した。また、古ロシア語の文法書としては、В.В. Иванов, С.И. Иорданиди, Л.В. Вялкина et al. (eds.), Древнерусская грамматика XII-XIII вв.が、現在実用に耐える唯一の古ロシア語辞典としてはИ. И. Срезне́вский, Материалы для словаря древнерусского языка по письменным памятникам(3vols.)が参照された。さらにこれらに加え、ロシア[語]学/スラヴ[語]学にアプローチするために役立つ書物として紹介されたのは、ロシア研究必携R. Auty & D. Obolensky(eds.), Companion to Russian Studies(3vols.)(第1巻はロシア史、第2巻はロシアの言語と文学、第3巻はロシアの芸術と建築を主題とする)、ロシア語・スラヴ語学概説書の名著W. J. Entwistle, W. A. Morison, Russian and the Slavonic languagesであった。

今回の講義は、無論現在の世界情勢を反映してなされたものであり、そしてそこで講じられたこともまた、この講義の主題に含まれる。その主題とは、全世界史そのものである。だがそれは先生の手にかかればたった一つの言葉で決着してしまう――全世界史を相手にして一言で充分であるというこの究極のストイシズムは、言葉について真剣な問題意識を持つ全ての人間が目指すべき境地であるだろう――。そしてこの一連の講義それ自体は、その一言の純粋な変奏であって、その一言から展開する言葉のみによって全世界史を余すところなく理解し得ることを実地に証明していく過程である。それは直線的な事実の連鎖(=фабула)として現象する世界史を、正確に秩序付けられた構造をもつ歴史観(=сюжет)として語り直すことに他ならない。本講義こそエーコが『プラハの墓地』において試みたロシア・フォルマリズム的手法の実践である、という今回の講義での先生の言葉は、この意味において理解されるべきであろう。

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