『原典黙示録』第94回(3/12) 講義録

『原典黙示録』第94回 講義録

田中大

今回の講義の主題は、何と印欧語族概論であった。初めに、ごく初歩的な教科書としてE. Tichy, Indogermanistisches Grundwissenが紹介された。その第1章冒頭の概説には関連文献として、O. J. L. Szemerenyi, Introduction to Indo-European LinguisticsR. S. P. Beekes, Comparative Indo-European Linguistics: An Introduction、M. Meier-Brügger, Indogermanische SprachwissenschaftB. W. Fortson IV, Indo-European Language and Culture: An Introductionが掲載されていたが、講義の中ではこれら全てが実際に繙かれた。その他、Antoine MeilletMarcel Cohenらの監修の下に当時のフランス言語学の大家が結集して全世界の言語について執筆したLes langues du monde, par un groupe de linguistes (2vols.)André Martinetによる印欧語族比較言語学概説書A. Martinet, Des steppes aux océans : l’indo-européen et les «indo-européens»が基本文献として紹介された。

続いて、やや古くはあるものの定番の概説書であったJ. P. Mallory, In Search of the Indo-Europeansや同著者による印欧祖語入門書J. P. Mallory & D. Q. Adams, The Oxford Introduction to Proto-Indo-European and the Proto-Indo-European Worldが登場した。後者のIntroducionには、Carl Darling Buckが印欧諸語について達成した仕事を印欧祖語について行うことを期して本書が執筆された旨が書かれている。その仕事とは、C. D. Buck, A Dictionary of Selected Synonyms in the Principal Indo-European Languages: A Contribution to the History of Ideasである。これは、“world”“earth”“dust”といった基本単語について、30以上の印欧諸語の対応語を列記し、それらに逐一解説を加えたもので、一人の学者が成し遂げた仕事としてまことに瞠目すべきものである。彼は印欧語族比較研究に本格的に乗り出すまではイタリック語派やギリシア語方言を中心に研究を行っており、その成果であるC. D. Buck, Comparative Grammar of Greek and Latin――ただし本書の内容は現在では古くなっているため後継書としてA. L. Sihler, New Comparative Grammar of Greek and Latinが刊行されている――やC. D. Buck, The Greek Dialectsもここで参照された。

さらに、印欧語族の語源辞典としてはJ. Pokorny, Indogermanisches Etymologisches Worterbuch(2vols.)が紹介された。こちらもたった一人の研究者によって執筆されたことには驚くほかはないが、本書は後述する喉音理論やヒッタイト語をはじめとするアナトリア語派に関する知見などが反映されていないため、現在の印欧語族研究の水準から見れば不十分な点が多い。そしてこれに代わる印欧語族語源辞典を刊行することを目的として編纂されているのが、Leiden Indo-European Etymological Dictionary Seriesである。原典研究所はそのほとんどを所有しているが、これは現代の世界中の様々な言語の専門家たちの総力を結集して編纂されたもので、今や印欧語族の起源への探究は、全世界の研究者を巻き込んで取り組まねばならない大事業へと膨張してしまったということである。

印欧語比較言語学の出発点となったのは、18世紀の東洋学者Sir William Jonesがサンスクリット語とギリシア語・ラテン語とが共通の祖語をもつ可能性を指摘したことであった。そしてその後、19世紀初頭にRasmus Christian Raskによる『古ノルド語またはアイスランド語の起源についての研究』R. C. Rask, Undersøgelse om det gamle Nordiske eller Islandske Sprogs Oprindelseや、Franz Boppによる『ギリシア語、ラテン語、ペルシア語、ゲルマン語との比較におけるサンスクリット語の活用体系について』F. Bopp, Über das Conjugationssystem der Sanskritsprache in Vergleichung mit jenem der griechischen, lateinischen, persischen und germanischen Spracheが刊行され、ここに印欧語族比較言語学が呱呱の声をあげたのであった。講義では、前者の研究の礎となったRaskによる『アイスランド語または古ノルド語文法入門』R. C. Rask, Vejledning til det Islandske eller gamle Nordiske Sprogの英訳書A Grammar of the Icelandic or Old Norse Tongueや、Boppの研究の集大成ともいえる『サンスクリット語、ゼンド語、ギリシア語、ラテン語、リトアニア語、ゴート語、ゲルマン語、スラヴ語比較文法』F. Bopp, A Comparative Grammar of the Sanscrit, Zend, Greek, Latin, Lithuanian, Gothic, German, and Sclavonic Languagesが紹介された。また19世紀後半に活躍した次世代の比較言語学者たち、即ち青年文法学派の代表的な研究成果としてHermann Paulによる言語変化の一般理論に関する研究H. Paul, Prinzipien der Sprachgeschichteが登場した。

その後印欧語族比較言語学は19世紀末以降のヒッタイト語発見・解読により更なる進歩を遂げるが、その進歩の一つとして特筆すべきものとして講義の中で言及されたのは、喉音理論を裏付ける実例の発見であった。ヒッタイト語の発見に先立つ1878年に上梓された『印欧諸語における母音の原初的体系に関する覚書』F. de Saussure, Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennesにおいて、Saussureは長母音ē、ā、ōは母音e、oに或る音が加わることによって生じたものであるとの仮説を唱え、さらに後に彼はその音が喉音の一種であると主張した。喉音は印欧語には存在しないと考えられていたこともあってこの理論はしばらく受け入れられずにいたが、ヒッタイト語が解読されると、それが喉音をもつ言語であり、しかもその喉音がソシュールの示した理論に沿う形で現れることが明らかとなって、現在ではこの喉音理論は概ね受け入れられている。

今回の講義において触れられたことは、本来であれば印欧語を学ぶ人間は真っ先に学ばねばならない必須事項、まさしく「入門の入門」である。しかし、「入門の入門」であるということは、それがたやすく取り扱うことのできる内容であるということを全く意味しない。ここではその問題の底のない深みに慄然とすることこそ、本当の意味で門の前に立つことであるのだと言えよう。こうした体験は、己の身を実際にそこに置くことでしか得ることができない。言葉の中には全てがあるが、しかしその無限の豊かさを掴み取るためには、世界と生身で対峙しなければならないのである。

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