『原典黙示録』第95回(3/19) 講義録

『原典黙示録』第95回 講義録

田中大

20世紀に入って青年文法学派全盛の時代が過ぎると、Vilém Mathesiusの下にソシュールの影響を受けた言語学者たちが集ってプラハ言語学サークルが結成された。彼らは構造言語学の、とりわけ音韻論の分野で様々な成果を上げることになる。このサークルの中心的なメンバーとしては、 Roman Osipovich JakobsonNikolai Sergeievich Trubetzkoiらがおり、その機関紙Travaux du Cercle Linguistique de Prague.にはÉmile BenvenisteAndré Martinetといった錚々たる面々が寄稿していた。今回の講義で紹介されたのは、N.  Trubetzkoi, Grundzüge der PhonologieÉ. Benveniste, Problémes de linguistique généraleÉ. Benveniste, Le vocabulaire des institutions indo-européennes(2vols.)、またNicolas Ruwetによって編纂されたJakobson選集R. Jakobson, Essais de linguistique générale(2vols.)といったこれらの学者による言語学の重要著作であった。

こうして、特にJakobsonの言語学の多大な影響を受け、構造主義、ないし記号論が思想界に旋風を巻き起こしてゆくことになるのであり、ここにおいて、前回から追ってきた言語学の潮流は現在の思想状況に連なってくる。講義の中で先生によって参照されたのは、若き先生自身によるエッセイ『PRELUDE』(1968)の一節であった。

この課題は《言語の自立と非言語の構造》あるいは《饒舌と不在との間》という二つの異った〈形〉への集約を通しておし進められていくだろう

ここで「非言語」と言われているものは「記号」である。そして記号は常に参照されるものの存在によって成立するのだから、それだけが自立して存在するということはあり得ない。では、言語とは、このような記号でしかないのか。否、われわれの言語経験は、到底無機的な記号の連鎖に還元できるものではない。ひとがこのように答えることができたならば、彼はもはや「なぜ言語なのか」という決定的な〈問い〉に紙一重で接していると言ってよいだろう。

論証とは記号的な営為なのだから、論証のみによっては、この〈問い〉から先に進むことは決してできない。では、われわれはそこからいかにして前進すればよいのか。それは確かに自立する〈言葉〉を彫琢し、読み手の前に示すことによってである。そしてこの試みを見事に達成した〈テクスト〉こそが、『おんぱろす』なのであった。ひとは自己の生を生きながら、それを読むだけでよい。そこには錯綜するインターテクスチュアリティの中に、人間が経験し得ること全てに通ずる或る〈体験〉が、それを〈追体験〉せしめる引力を伴って確かに受肉しているのである。

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