イタリア語講座 第22回(3/28)講義録

中垣太良

前回の講義で”stato”についての<探究>をひとまず終え、今回は第2章の講読に入った。範囲は以下である。

[Ⅱ]
DE PRINCIPATIBUS HEREDITARIIS

 [1] Io lascerò indreto il ragionare delle republiche perché altra volta ne ragionai a lungo. [2] Volterommi solo al principato e andrò ritessendo gli orditi soprascritti, e disputerò come questi principati si possino governare e mantenere.

 [3] Dico adunque che nelli stati ereditari e assuefatti al sangue del loro principe sono assai minore difficultà a mantenergli che ne’ nuovi, (……)

[Ⅱ]
世襲の君主国について

 [1] 共和国についての考察は後ろに置いておこう。なぜなら、共和国については別の機会に長々と論じたからだ。[2] 君主国についてのみ目を向け、前述した縦糸を織りつつ進み、こうした君主国がいかに統治され、維持されるのか論じることにしよう。

 [3] それでは、世襲制で君主の血統になじんでいる国においては、新しい君主国よりも、国体を維持するための困難がはるかに小さい、と言っておこう。(……)(拙訳)

 

一般に、如何程の距離感を保って語るかは相手との親疎関係や上下関係などに基づく。君主へ捧げられる文章は、友人宛ての文章よりも距離感を大きく保って然るべきである。ところがこの部分でマキャベリは、前章から転じて、“io”「わたし」をはっきりと打ち出しながら自らの主張を語っている。これは“tu”「きみ」へ語りかけることと裏返しであり、大胆な書きぶりと言わねばならない……いや、失職し、投獄・出所を経て隠遁者としてひっそり生きていたマキャベリが君主の小ロレンツォに献呈するにしては、危うい文体とすら言えるかもしれない。執筆しながらそのことに気がついたのであろう、彼は第3段落からは主語を“Noi”「我々、わたしたち」に切り替えている(これは論説文において主観性を抑制しているかのように装う手法の一つ、所謂“Editorial We”に当たる)。このような記述の細部から筆者の精神の運動を読み取れるようになってこそ、われわれは本当に「読んだ」といえるのである。さもなくばそれは単に紙面をなぞったに過ぎない。

さて、続いて“altra volta ne ragionai a lungo”「共和国については別の機会に長々と論じた」とある。これは『君主論』より先に執筆が開始された『ディスコルシ』の内容を指すと言われているが、執筆時期については未だ議論があり、ことの真偽は不明である。Inglese版は脚注で、マキャベリがここで参照せんとしている『ディスコルシ』の原文は現存しないという立場を取っている。さらに、その失われた『ディスコルシ』(“perduti ‘discorsi’ ”)の内容が、おそらくは現存する『ディスコルシ』1巻第4-6章に移されたのであろう、と述べている。

2文目では興味深い比喩が用いられている。要は、国体の種類を述べた第1章の記述を「縦糸」(gli orditi)としつつ、君主国の統治・維持のされ方を横糸(本文中には無いが、強いて言えばle trame)として、文章を織っていくということである。当然ここでは、イタリア語のtesto「本文」の語源たるラテン語textus(「織り込まれたもの」)も意識されているであろう。以前講義で指摘されたように、マキャベリの言語使用はラテン語に深く根ざしているのだから。

さて、3文目について。che節の主動詞は”sono”であり、ここから主語は1人称単数か3人称複数であることがわかるが、文中に“io”に当たるものはないから、後者であろう。これに当たるは“difficultà”(なお、これは単複同形)である。対して補語は“minore”であるが、妙なことにこちらは単数形である。これは、マキャベリがよく単複を混用することを想起できれば合点がいく(第13回講義録参照)。あえて現代イタリア語らしく整えた形・語順にすれば、“difficultà sono assai minori”(「困難が遥かに小さい」)とでもなろう。ここで2つの仏語訳(Marie Gaille-Nikodimov訳、Yves Levy訳)が参照されると、どちらにおいても“il y a beaucoup moins de difficultés”(「より遥かに小さな困難がある」)という風に、あえて原文の文構造を組み替えた形で訳しているが、これはフランス語の語感を優先したのであろうと指摘された。

今回の範囲における、主語としての“io”の使用は、ともすればさらりと読み過ごしてしまいかねない問題ーー翻訳で読めばなおさらーーであった。この問題の重要性に気づくには、「自分の目的意識に沿って書くことと、自分の身を守ることとを両立させる」という書き手の視点が必要である。先生はよく「書かなければ書けるようにならない」とおっしゃるが、同時に「書かなければ読めるようにもならない」のだと、わたしはようやく気がついた。しからばこの「言倫」という<場>で講義録を書くことは、単なる記録を超えた『君主論』の<再読>を意味しているばかりか、書き手の立場から<読む>準備を整える役割をも果たしているのである。こうした幸福な任務を得たことに、改めて厚く感謝したい。

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